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2015年5月27日 (水)

 内臓とわたし

 人間には、それぞれ師と仰ぐ人、師まではいかなくても尊敬する人、或いは自分に影響を与えた人が少なからずいるはずだ。

 僕にも多くの教師のような存在がいる。現実的に出会っている人もいれば、お会いしたことがない書物や映像だけの人もいる。
 漫画家の東海林さだお氏は、ちょっと系統の変わった部類ではあるが、僕に影響を与えた作家の一人である。
9784163900988
 最近、東海林氏の新刊である「猫大好き」を読み、いつもながらの大笑いしながら、なるほどと膝を打つ場面があった。
 なかでも「内臓とわたし」という連続4回のエッセイはさすがであった。
 
内臓とわたしⅠ 「人は皆オーナー、されど......」
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 自分のカラダをつくっているのは、自分である。しかも、100%天然素材でつくっている。
 しかし、自分は果たしてカラダのオーナーなのだろうか。
 ワンマン経営でやってきたつもりが、部下はいいなりになっているだろうか。
 言いなりにならないばかりか、別の命令系統に従って動いている連中がいるのだ!
 
  目玉は、私が見たいと思った方向に動く。では、瞬きはどうか?
   人は1分間に20回瞬きをするといわれている。それを誰がやっているのか?
   オーナーであるわたしが「20回やれよ」と命じたことは一度もない。思えばこの件に関しては丸投げである。
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 この目玉は何でできているか。食べ物である。
 ということは、目玉のレンズはゴハンやサンマ、タクアンや納豆でできていることになる。
 どこでどう配分してタクアンがメダマのレンズになるのか。
 
 そして、この問題はこれらのことがオーナーのあずかり知らぬところで行なわれていることである。
 こうなってくると自分のカラダは自分のもの説はあやしくなってくるではないか。オーナーなどといい気になっている場合ではないのだ。目玉はオーナーに相談することなく、自分のやり方でやってきた。
 
 自分のカラダについて、これまでわかってきたことは次のような事実だ。
 自分のカラダは自分のものである。
 自分は人体という巨大な組織の頂点に立ち、ブレジデントであり、オーナーである。
 ワンマン社長であるから思いのまま振舞えると思ったら、大間違いだった。
 思いのまま振舞えるのはほんの一部であり、あとはほとんど全部丸投げてある。
 経営も運営も、事業計画も全部人任せであり、誰が何をやっているのかさえ知らない。
 このオーナー社長は部下を掌握していない。めったに部下に面会したことがない。特に内臓系は誰一人として面会していない。
 自分の肺を見た人はいるだろうか。自分の身内でありながら肝臓を見たことがない。
 
内臓とわたしⅡ 「人は皆、生まれながらの管理職である」

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 自分は自分のカラダのどのような位置にいるのか。
 ウエの方にいるということは何となくわかる。会社で考えると、管理職だ。
 
 管理職として、一度として部下たちに直接会ったことがあるだろうか。部下たちと面識のない上司などいるだろうか。
 胃は、釘をも溶かす強い酸(塩酸)を一日換算で3リットル、食べ物に浴びせている。塩酸といえば危険物である。
 
 管理職としての自分に何の報告もなく、胃はそういう危険物を取り扱っていたのだ。「聞いてないぞ」と言っても遅いのだ。
 
 
内臓とわたしⅢ 「身体をめぐる哲学論文」
 
 自分と自分の内臓はどのような関係にあるのか。
 
 デカルトもわたくしと同じ考え方であった。オーナー説、大家さん説をとなえていた。心身二元論である。人の本質は意識の主体(心)にある。身体(物質)は第二義的なものである。
 ところが、一つ一つ検討していくとカラダは、配下の立場をわきまえない行動があまり多い。
 
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 早い話がヒザである。ヒザ下を叩くと、命じていないのに勝手にピクンと跳ね上がる。何の意味も持たないので、主体(わたくし)としては非常に不愉快であるから、次回からは現場の跳ね上がりを阻止しようと身構える。何回やっても現場はウエからの指令を無視する。
 
 沸騰したやかんに手を触れると「アチッ」といって瞬間的に手を引っ込める。このとき自分はこの行動に参加していない。ウエの判断を待っていたのでは間に合わないのは確かだが、ウエとしては何となく面白くない。
 
 「アチッ」は常に事件発生の0.何秒か後である。「アチッ」は、事後承諾を求められた本人の悔し紛れの叫びなのだ。
 この「アチッ」事件は結果的にはよかったことになるのだが、「ヒザカクン」のほうは何の意味もないところが今もって悔しい。バカにされたとしか思えないのだ。
 この両事件は、必ずしも身体(内臓を含む)が主体の意向どおりに動くものではないことを如実に示している。
 
...............と、コラムは続いていくのだが、ほろ酔いで打っていたら、かなりの量になってしまい疲れてきたので、ここらでやめますが、興味のある方は文藝春秋社から出ている東海林氏の著作シリーズをご覧ください。
 
 とりあえず部分引用しようとしたら、面白いのでかなり引張っちゃいました。
 
 僕のいいたかったことは、日常的には脳化された世界が中心となり、仕事の出来や、人間関係での喜怒哀楽、経済感覚や損得勘定、妄想、不安等に一喜一憂しています。しかし、身体的存在としての自分は、無意識的に生存のために呼吸や栄養摂取、腸煽動、免疫作用等をダイナミックに行なっており、出世がどうのとか、あいつが許せんとかの意識とは、かけ離れた世界で頑張っているということです。どうでもいいことに意識が振り回されそうになったら、ダイナミックに生きようと身体活動をしているもう一人の自分自身に眼をむけることです。
 
 そして、これらは武道に通じます.....
 
 と書いていたら、零時になりますので、ここらへんでおやすみなさいm(_ _)m 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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