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2014年1月14日 (火)

汝の敵を愛せよ

今日は母と浅草歌舞伎を観た後、合気道の親しい仲間との昇段祝い&新年会に参加した。

 二次会まで行ってかなり飲んでしまったが、忘れずに記憶しておきたいことがあるので、こうしてPCに向かっている。

 今日は、キリストの「汝の敵を愛せよ」ということについて、飲み会で語ってしまった。

 それは、今まで敵を愛すということは、人類皆友達的な観念論で捉えていたり、道徳的、儒教的なイメージとして解釈していたように思える。

 しかし、時代背景を考えれば、イエスはパリサイ派、ユダヤ教徒や、ローマ人からの迫害をリアルに受けていたはずだ。そこではイエスは実際に敵から迫害され、攻撃されていたはずであり、観念的に敵を愛するというレベルでは通用しない眼の前の危機に常にさらされていたはずである。イエスはその危機的状況を「敵を愛する」という姿勢で、乗り切ってきたのではないか。しかし、イエスは最後に十字架にかけられたではないかという人もいらっしゃるかもしれないが、イエスご自身はその死を受容なさったのだ。

 もう一度戻るが、「汝の敵を愛せよ」とは、みんな仲良くしようねという観念論、道徳ではなく、自分を迫害する敵という実態に対する定義ではないだろうか。攻撃してくる相手を愛して、その攻撃をかわし、ずらし、むしろ違う世界に導くのだ。そこにキリストの活人術がある。

  敵が攻撃してきても、愛することによって、敵のその拳を和らげ、静かに倒すことが可能となるのだ。

 武道にとって「汝の敵を愛せよ」とは、最強の武器となるフレーズではないかと思ったのだった。これは深い.................

 植芝盛平

 合気道の開祖である植芝盛平翁は、大本教の出口王仁三郎の警備のため、蒙古遠征に同行し、数多くの敵を倒したという。植芝爺は「合気は愛じゃ」と語っていらっしゃる。

合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。

いかなる速技で、敵がおそいかかっても、私は敗れない。それは、私の技が、敵の技より速いからではない。これは、速い、おそいの問題ではない。はじめから勝負がついているのだ。

敵が、「宇宙そのものである私」とあらそおうとすることは、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。すなわち、私と争おうという気持をおこした瞬間に、敵はすでに敗れているのだ。そこには、速いとか、おそいとかいう、時の長さが全然存在しないのだ。

・「愛は争わない。」「愛には敵がない。」何ものかを敵とし、何ものかと争う心は、すでに神の心ではないのだ。

真の武はいかなる場合にも絶対不敗である。即ち絶対不敗とは絶対に何ものとも争わぬことである。勝つとは己の心の中の「争う心」にうちかつことである。あたえられた自己の使命をなしとげることである。

高橋英雄 編著『武産合気』より



 

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