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2014年1月19日 (日)

植芝盛平

 初めて冠光寺流柔術についての本を読んだときは、カトリック修道師に伝えられていた活人術!! ということに驚いたとともに、ほんとうにそんなことがあるのかという疑問が湧いた。それは僕だけではなく、愛することを基調にした武道というのは、一般的にはうさんくさい感じがするのではないか。

 数日前にこのブログで、たまたま合気道開祖の植芝盛平翁のことを書いたので、5年ぶりに「合気道開祖・植芝盛平語録 合気神髄」(八幡書店) に目を通してみた。すると、5年前には殆どが宗教的でよくわからなかった印象だったが、今回はなるほどと膝を叩く文章が多々あった。

 愛は争わない。愛には敵はない。何ものかを敵とし、何ものかと争う心はすでに宇宙の心ではないのである。真の武道には敵はない。真の武道とは愛の働きである。

 合気は真実そのものの現われであって、愛で世の中を吸収、和合させ、いかなるものができても、これを和合していくのである。我々は真の世界人類を至仁、至愛に同化させてゆかねばならない。怒ってくればこれも和するのである。武士のことを「さむらい」というが、これは愛の道に従順という意味であって、やたらに斬り合うのがさむらいではないのである。神、肉体ともに鍛錬しあって国の柱となり、愛の運動に進みたいと思う。

 武道の鍛錬とは、森羅万象を正しく産み、まもり、育てる神の愛の力を、わが心身の内で鍛錬することである。

 合気道の極意は、己れの邪気をはらい、宇宙の動きと調和させ、宇宙そのものと一致させることにあるという。では、宇宙の心とは何か? 宇宙のすみずみに及ぶ偉大な「愛」であると植芝翁は断言する。

 だが、合気道の極意が宇宙全体の愛と一致させることだというのは、余りにもスケールが大きすぎて理解不全に陥ってしまうのが普通の感覚ではないか。だから、そのことはひとまず置いといて、武道として身体動作や、心身調和といったことをベースに稽古せざる得ないのが現実であろう。

 冠光寺流柔術の愛する武道というのは、キリスト教的色彩が強くなるため、「武道とイエスキリスト」というトンデモな組み合わせとなり、変な色物として扱われてしまう傾向にあるのだろう。しかし、植芝翁の愛はキリストも含めた包括的、宇宙的な愛であり、その意味では、愛する活人術というのは、本来の武道の姿に近いのではないか。

 そして、次に出てくるのは、その愛するとはどういうことなのか? という疑問だ。

 それは星の数ほどの言葉がでてきそうだが(家族や恋人を愛すること、自然や動物を愛すること等...)、頭で考えているだけは到達できないものである。そのためにも、あるべき論では到達できない世界に、武道の鍛錬を通して近づいていくのだろう。

 ※昨夜、うちの奥さんとY田さんが、武道・格闘技界では有名な団体の新年会に参加してきた。二人ともその世界にはまったく興味がなかったのに、たまたまご縁があって行ってきたのだが、武道猛者たちのあっと驚く宴会に驚き、楽しんだようだ。Y田さんには、これからの人生を考えるうえでの参考となったとの情報有(*^-^)

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