木曜日の夜の合気道は、部下との打ち合わせが長引き、遅刻しての参加となった。
その日、大きな気づきがあった。
肩取に入る直前の稽古として、相手の腕を掴みながら、大きく円を描くように腕を旋回させる運動を行なった。これは、普通にできる運動行為であり、何人かと組んだが当たり前のように、二人の腕は旋回した。
しかし、高段者の先輩と組んだときは、スムーズに旋回することができない。
「もっとチカラを抜いて」と何度も言われたが、動きがギクシャクしてしまう。
「赤ちゃんの手を廻すように」とアドバイスを受けた。当然、急に中年おじさんが赤ちゃんになることは困難であり、最初は中学生レベル、次に小学生と低年齢化しながら、なんとか幼稚園レベルまで到達してお遊戯をしている瞬間に、ふわっと二人の腕が廻った。何の力みもなく、まるで風が吹いたの如く。
そういえば、この風が吹いたような感覚は何度か味わってきたことを思い出した。
合気上げで、先輩門人に座りながら両手を押さえこまれ悶々としていたときに、一瞬なにも考えずに自分の両手をあげたときに、先輩はふわーっと風が吹いたように、立ち上がった。
合気道でも、ほんとうになんの力も使わずに(実際は当然筋肉は使っていても) 、相手に技をかけたときには、相手を簡単に導くことができて、透明な風が吹いたような感覚が残るのだ。
そして木曜の稽古で発見したのは、現在の自分(おじさん)がただチカラを抜いて、相手を動かそうという意識では、それなりの効果があっても、限界があるということだ。意識を自分のセルフイメージ(年齢、職業、趣味、過去の過ち....)から脱皮させ、ほんとうに純真な子どもになって、気持ちよく相手と向き合うことによって、無限のチカラを発揮できるのではないかということだ。
(そういえば、以前読んだ、宇城憲治氏の「子どもにできて大人にできないこと(どう出版)」にも、スクラムを組んだ大人たちを動かそうとして、大人がやると無理でも小さな子どもが押すと簡単に倒れるという実験が証明されていた。)
どう出版ホームページより
武道では居付き(執着)から離れろといわれるが、こういうことなのかも知れない。
一瞬、執着(勝敗、欲得、感情..)から離れたつもりでも、自分に対する自我を抱えたままでは、それが居付きとなる。自分の中にある自意識(中年男)(職業)(部下30人)(毎晩飲んでいる)(過去の恥ずかしき出来事)(家族親戚関係)..を抱えたままで、チカラを抜いても、たかがしれているのであろう。
だから、その居付きから離れるために、意識を丹田、臍下に置く、相手を愛するといった方法があるのかも知れない。
そして、居付いた状況が自分を縛りつけ、本来のチカラを発揮させたないのは武道の世界に限定されが、私たちの日常生活にも及ぶハナシである。
自分が執着していること。「こうなりたい」、「これが欲しい」、「許せない」といった思いは、エネルギーにもなるが、完全な執着と化してしまうと、そこから身動きがとれなくなり、状況の変化にも適応することが困難になる。
こうであってほしいという強い思い。それが、例えば「家庭の幸せ」や「信頼し合う職場」を願いとしてもつのは、人として自然であり、それが活力を生むことにもなろう。しかし、それが執着と化してしまっていると、自分の願望とは違った出来事が生じた場合、それは苦悩の種となり、葛藤を生じさせ、自分を不安定な存在としてしまう危険がある。幸せだと思うことが、自分や周囲を不幸せにしてしまうという逆転現象を生じさせるのだ。
小さな子どもは、泣いても、すぐに笑うことができる。大人は、泣いたら、そこから離れられずに引きずってしまって、笑うことができない。
子どもが沢山の経験や知識を積んで大人になる。子どもが知らない世界を体験してきた大人が、子どものような素直な気持ちになれたら、そこには凄い可能性があるのかもしれない。
マタイ福音書18章
そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」(1節)
「そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ』」(2~4節)。
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