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2013年1月

2013年1月30日 (水)

 うちの娘が、ふかわりょうのユニット(ROCKETMAN)のジャケットデザインしました。

 親の欲目かもしれませんが、なかなか良い出来だと思っています。よろしく!

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2013年1月26日 (土)

金スマの美輪さん

 今日はブログに書こうと思っていたことがあったのだが、酔ってしまってデカ盛り話題で盛り上がって(ひとりで)、今さっきブログとして保存してしまった。しかし、ココアを飲んで少しだけ酔い覚ましをしたので、忘れないうちに書いておこう。

 

 昨夜は、10年前に僕が研修を担当した生徒たちとの懇親会があった。そこで、なぜか僕はひとりで盛り上がってしまい、ここだけの話がはじまった。

 なかでも受けたのが、ある業界筋から聞いた都内某スポーツ施設がホモセクシャルの人たちの逢い引きの場所になっているという話だった。もし、事実だとしたら監視員の人は大変だろうと察する。どうのように対応すべきかと管理側は頭を悩ますことであろう。

 もし、僕だったらどうするかと自問自答したときに、ふと思ったのが、これが男女の関係だとしたらこれほど問題化するだろうかという疑問だ。

 スポーツ施設で、男が女の子をナンパしたり、男女のカップルがイチャイチャするのは想定内である。それをみて、監視員がフザケンナ!離れなさい!と注意することは、通常はまずあり得ないだろう。

 しかし、老若男女が集う場で、男が男をナンパしたり、男同士手をつないでいたりすると、予想外の混乱を招くことになりかねない。

 差別、偏見、非人道というような言葉が浮かんできてしまうが、これはなかなか難しいことだ。仮に自分が小学生の子どもを連れて、遊園地に行ったとする。そこて、男同士抱き合っている人たちがいたとする。子どもから何故?と聞かれたとする。.....自分はどう答えられるのだろうか。

 僕はホモセクシャルの方々とは、少しだけご縁があった(僕はそうではないが....)。ここでは、日記といいつつも、書けない体験がいくつかあるが(昨夜は少し披露して盛り上がったが)、僕はその方々の意思、人権を尊重したいと思う(何人か尊重できない方々もいたが)。

 昨日、録画した金スマを帰宅後チェックした。美輪明宏さんがゲストであり、同性愛に対する偏見に対して、生涯を賭けてからだを張って戦ってきた姿に感動した。なおかつ、有名な同性愛のコンビ?! が自分たちをオカマと茶化す態度に怒っていらっしゃったが、本当に戦慄を覚えるほどの凄まじい怒り方であった。.

 それに対して、僕の同性愛に対するイメージは、どこかユーモラスなものがあり、あのコンビに親しみを覚えてりもしていた。ストレートな主張もあっていいし、ユーモラスな部分もあってバラエティに富んだアプローチをすることによって、社会に対する波及効果をもつと思うのだが、僕は甘いのだろうか、美輪さん....。

 ここ最近は、ゲイと呼ばれるタレントさんが日常的にテレビに登場するようになった。マツコデラックスや、はるな愛、ミッツ・マングローブ、クリス松村、楽しんご.........。彼らは色物扱いされつつも、そのユーモアさや、差別に負けない強さが視聴者の共感を呼んでいるのかもしれない。

 テレビで同性愛者が堂々と自分の意見を言えるようになったのは、それは美輪さんの孤軍奮闘してきた歴史が、社会の同性愛者に対する認識を変えてきたことが大きいのではないか。こうして人間的に魅力がある同性愛者たちが、立ち上がって活躍してきたことにより、厳しい世間の眼が少しだけど、変容しつつあるようにも感じるのだ。

 話は戻るが、出会い系サイトの延長として同性愛者が集うような場所には行きたくもないし、そのような場所には子どもを連れていくことはないだろう(それは同性愛者に限らずだが)。しかし、ナンパの空間ではなく、普段の生活のなかで、真剣に愛し合っている同性愛者たちがそばにいても、何も構えることはない。美輪さんが満身創痍で戦ってきた偏見というのは、同性愛に向けられたものだけではなく、社会問題となっている仲間はずれ、苛め、懲らしめ(体罰)や性的倒錯、差別心といった人間の業そのもののような気がするのだが。

 ※ホモセクショナルの舞台劇を映画化した「真夜中のパーティー」を観た高校生の僕は、その不条理までに倒錯し、苦悩に満ちた人間たちの密室劇に衝撃を受けた。後に、その映画を観た池袋文芸座がホモセクショナルが集まる場と知ることになるのだが.....。

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デカ盛りの聖地 ! 

 今日は最近いろいろあってお疲れ気味の母と奥さんの疲れを癒すため、浅草からクルマで30分程度で着く野田の湯の郷に行ってきた。そしてポカポカした後の昼食はなんとデカ盛りで東の聖地といわれている「やよい食堂」だ。

 80歳になる母を連れていくには、最も不釣合いな食堂である。しかし、その圧倒的な大盛りの質量をどうしても、この眼で確かめたかったのだ。

 普段はかなり混んでいるらしいが、今日は午後2時頃だったため、10分程度で席に座ることができた。 大盛りは絶対に無理だと思ったので、母は天丼、奥さんはオムライス、僕はカツ丼というメニューをすべて並で注文した。5251874v

 先に注文したお客さんのメニュ-が運ばれるたびに、周囲から驚きと笑い声が聞こえてくる。大盛りのカレーライスは、巨大な噴水のようであった!! 大盛りの天ぷら定食は、まるでトラック荷台を天ぷらでいっぱいにしたような皿に山盛りどんぶり飯がついてきた!!デジカメを持っていなかったため、web公開されている天丼を参考までに、貼り付けておく。

目撃者である我々三人も、その大盛りシリーズに圧倒とれ、大いに笑ってしまった。我々に運ばれてきた並メニュー群も、かなりのボリュームであった。完食できたのは僕だけで、奥さんの半分残したオムライスは、持ち帰りにしてもらった。それにしても、三人合わせて1900円というのも安くて驚きだ。

 店を出てから、母はもう二度と行かないと言っていたが、僕はサプライズとして誰かを誘って、腰を抜かしてやりたいと思ったのだった。

 浅草に戻ってから、この三人に85歳の叔母が加わり、ダイニングbarに行ったが、三人とも昼間のガツンが強すぎて、あまり食べられなかった。

 僕も、帰宅してからも、ただひたすらこうして飲みながら、このようにお恥ずかしいブログを書いている。

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2013年1月24日 (木)

 今朝はある著名なスポーツ選手の夢を見た。そして、夕方、昔の職場の飲み会に行く途中に、何と! 街でその選手とばったりと出会った。

 失礼かと思いつつ、夢で観たその選手の心の想いを伝えたら、その通りですと驚かれた。

 以前、合気道の故藤平光一先生がなくなられた日の早朝に、クルマに乗った藤平先生にお辞儀してお見送りする夢をみたことがあり、その日の夜に訃報を聞いてビックリしたことがあったが、僕にとって夢は何かのメッセージを含んでいるものなのだろうか.............。

 不思議である。ちょっと酔ってしまいましたが、一応日記として書いておきます。おやすみなさい。

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2013年1月21日 (月)

 昨日は泊まりの仕事のため、久々にお酒は飲まなかったのだが、どうも淋しい。寂しさを紛らわそうとCSの西部劇「シルバラード」を11時半頃まで見てしまったが、とても面白くて興奮してしまった。その結果、なかなか寝付かれずに睡眠不足となってしまったのだった。

  そのせいか今日はだるい。睡眠不足もあるだろうが、机の前に座りっぱなしで、カラダに邪気が詰まってしまった感じだ。最近は合気道の稽古に行っていないし、一昨日の鏡開きも親父の入院の関係でお休みした。カラダがどうもなまっている感じだ。

 やはり こういうときには、汗を流すのにかぎる。入浴でもいいのだが、やはりカラダを動かして汗をかいて、シャワーを浴びるのが最高なのである。しかし、今日もいろいろあって、長時間の運動はできない。

 ということでジムで20分集中して、背そらし、腹筋、ブレスマシンで鍛えてから、受身、柔軟をして、それから10分でシャワーと着替えの計30分でこなした。運動していると、カラダが喜んでいるのが伝わってきた。

 短時間でも、ココロもカラダも邪気払いが出来て爽快そのものであった。帰宅してからは、家で牛肉のざぶとんという部位を頂いた。以前、銀座の六雁ではじめてざぶとんを食べたときは、あまりに美味しくてびっくりしたが、今日は奥さんが浅草のオオゼキで売っているのを発見して買ってきてくれたのだ。食してみると、大変美味しゅうございますなのだ。ざぶとんを食した後、ほうとう鍋となり、お酒も昨日呑めなかった分、ビール、焼酎、日本酒と進んでいく。

 それから気持ちよく酔いながら、録画した1.4東京ドームの永田裕二vs鈴木みのるを観た。まさに至福のひとときである。随分安上がりな至福である。その後、適当なものがないので、年末に録画したアニメ「けいおん」を飛び飛びに観る。ロンドンのシーンがあるが、とても素敵に描かれていた。音楽も良かった。

 どうでもいいようなことをこうして書いているのだが、今日はカラダを動かす爽快感と、おいしいお肉を食べて、とても嬉しいので、酔ってて申し訳ないのですがアーカイブしてしまうのです。そんなにたいしたことじゃないけれど、なんかとても得したという感じなのです。

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2013年1月20日 (日)

親父の葬儀? と 「夜と霧」

 入院している親父だが、一昨日は急変の危険性をドクターから指摘されていたが、昨日病院に行ったところ、良くなってきており、とりあえず一安心である。

 昨日は、亡くなった兄の長女と次女の一家も見舞いにきていたが、HCU(準集中治療室)のため、座って話せる状況ではなく、みんな立ったまましばらくいたら、ドクターがご親切にもマル椅子を重ねて持ってきてくれた。

 そこで、みんなで丸くなり、親父も会話可能であったが、話題は兄貴の四十九日法要はいつやるのか、どこでやるのかといった話題に花が咲いた。僕は親父がどう聞いているのか気になって、「オヤジ、何のはなししているかわかる?」と尋ねたら、か細くなった声で「おれのそうしきだろ.....」とこたえたので、みんなで笑った。

 帰り際に通路を歩きながら、このフロアに多くの患者さんたちと、看護師さん、医師がいるのだが、多分われわれの声は大きく、廊下中に響いていたことであろうと気づいた。

 ....ということは、HCUベッドで治療中のオヤジを取り囲んで親族たちが、納骨はいつやるのか、四十九日法要の食事では住職を呼ぶのか....といった内容を、和気あいあいと楽しそうに語っていると誤解されたのではあるまいか!!

 ひょとしたら、親父のことだから、点滴交換にきた看護師さんに「おれのそうしきのはなししてた」と言う危険性も大なのだ。ああ。コレカラ見舞いに行き辛い.............. 。  

 ここんとこ、不謹慎なのかもしれないが、兄貴が死んで、親父も入院して、ほぼ毎日おふくろと会って、食事をしている。必ずビールを飲みながら。(今日は仕事で24時間缶詰め状態のため、久しぶりに独りだし、休肝日)。

 

「夜と霧」

 兄貴が死んで葬儀が終わってから、もう兄弟は誰もいなくなったという寂しさが出てきたのだが、親父が緊急入院して、ひょっとしたらあの世に行ってしまうかもと思ったら、変な言い方だが、死が身近に思えてきた。近くにいる隣人のような感覚だ。

 自分にとって死は遠いもの、忌み嫌うもの、天国、違う次元の世界.......。死んだら、かなり遠い外国にいくようなもので、死と普段の生活とはあまり関係性がないような捉え方をしていたのだ。 しかし、実は遠い外国ではなくて、現在も僕の身体を通り抜けている携帯電話やテレビの電波と同じようなもので、目には見えず、認識はできないのだけど、身近に存在している世界のように感じている。

 では、何のために肉体をもって、こうして生きて生活しているのか"!

 宗教的にはいろいろな解釈がある。原罪であったり、修行であったり、仏国土や神の国の建設、最後の審判等々........。とても、重たいテーマである。はっきりと、このためだと断言するのは難しい。

 今、僕が思っているのは、肉体をもたなければ出来ない色々な体験をしたくて、この世に生まれてきたのではないかということだ。あの世は調和されているが変化がないため、魂はこの世に生まれて、喜怒哀楽に満ちた世界を肉体をもって経験しながら、磨かれ成長していくのではないか。

H2  そんなことを言えるのは、この平和な日本に生まれてきたからかもしれないが、年末に放映されたNHKの「夜と霧」特集番組を観て確信したのだ。

 ユダヤ人の精神科医ヴィクトール・フランクルはナチスの強制収容所から奇跡的な生還を果たした。彼が過酷な収容所で囚人たちが何に絶望したか、何に希望を見い出したかを克明に記録したのが「夜と霧」だ。

 まさに死と隣り合わせの過酷で絶望的な状況の中でも、病人に自分のパンを差し出す人がいた。ユーモアや音楽で励まし合い、夕焼けの美しさに我を忘れ、どんな状況でも希望を失わない人たちがいた。

 フランクルは言う。

ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである

すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである

 きっと僕たちの人生は苦しめ苦しめ、働け働け、死ね死ねといっているのではない。生まれてきたこの時代と、この地、この人間関係の中で、何を見出し、語り、生きるのかということを人生は僕たちに委ねている。

 兄貴もきっと、まだやり残したことはあっただろう。僕もいずれ、そちらに帰還しなければならないが、まだこうしてこの世で生活しているからには、精一杯愉しく生きてやろうと思う。ぜひとも、あの世の様式に慣れてからでいいから、この世を応援してください。すみません、よろしくお願いします。

 

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2013年1月16日 (水)

今度は親父だ!? ・・・・入院個室料が一日3万5千円は酷い!!

親父が12年前にくも膜下で倒れてから、幾つかの病院、リハビリ施設、特養を転々としてきたが、現在の特養は10年近くになり、施設の費用や、入院費等々でかなりの金額を支払ってきた。

 さすがに、もう少し計画的に費用負担をしなければ、貯蓄破綻してしまうということで、親父の定期預金を解約する必要があり、それには本人による手続きが必要なため、リフト付ワゴン車を借りて、親父を特養から浅草の銀行まで移送することになり、本日が決行日であった。

 親父が施設の昼食を食べ終わる午後1時にお袋と待ち合わせて行った。さぁ、早く乗っけて出発しようという気持ちでイッパイだったのだが、介護職員の方がまず検温してからにしましょうということになり、測ったらなんと8度8分であった。

 ..せっかく仕事を休んで、リフト付ワゴン車を借りて、こうして来たのに....失望感でイッパイになった僕と母は仕方なく、特養を後にしたのだった。くそぉ-、このタイミングで熱出すなよ、しかも朝と昼の食事は全部たいらげたというじゃないか!" という責めの想いが生じてきた。しかし、待てよ、こんなことで目くじらを立てる俺の未熟さはなんだ!

 善哉善哉、親父よ、自分の定期預金の名義を変えられるのをカラダ゜で反応したんだね、さすが、わが父。一筋縄でいかない男だ....と無理矢理ほめたたえて、自分の気をまぎわらそうとしたのである。

 午後は休みをとってしまったし、リフト車は借りたし、何か気分がすぐれないため、姪とその息子2歳を誘って、お台場までリフレッシュのためにドライヴしたのだ。帰りは、水上バスがお台場から浅草まで出ているため、母と姪親子は4時半の便に乗せることにして、僕はクルマを返却しにいくことにした。乗船場に行く途中、珍しく事故寸前のヒヤッとする場面があった。もし、衝突していたら、どうなっていたのだろう。その時には、パラレルワールドというのが実在していて、事故を起こし自己崩壊した世界も同時に存在していたような気がした。しかし、ありがたいことに僕は事故を起こした悲惨な世界に向かわずに、危険回避できた現在の世界に導かれた。そんな不思議な感覚をもった。

 さてさて、それから水上バスの切符を二枚買った直後に、特養から連絡が入り、親父の熱が下がらないため、入院させるという。しかも、病院のベッドが空いていない為、3万円の個室しかなくて、しかも10日間くらい入院の可能性があるという。10日で30万円かぁ..............(ノ_-。)そういえば、正月早々、奥さんが台所の蛍光灯が切れかけているというので、わざわざ100円ショップのダイソーに行って買ってきたけど、サイズを間違えて再びダイソーまで交換しにいったのたが、100円のために片道1キロのダイソーに2往復したオレは何だったのか##!!!!(;д;)

 熱が出たくらいで、そんな高額とんでもないと拒否したが、最終的には呑まざるをえない状況になって、承諾する。病院の満床を理由とした個室利用は、差額ベッド料を支払う義務はないともいわれているが、この時期はどこの病院も満床状態らしい。しかも親父の入っている特養は、その病院の系列であるのだ。特養入居者で入院が必要になっても差額ベッド代が払えない人はどうなるのだろう。郊外の病院に入院ということになるのだろうか。

 急いでワゴン車を返してから、入院先に向かう地下鉄ホームで携帯が鳴って、3万円てはなく、3万5千円になるがいいか?ということだった。もう救急車が来ているのに今更拒否できるわけがないだろうと憤りつつも、わかったわかったと承諾する。

 いつもはお袋が入院のときに付き添っているのだが、さすがに親父が救急搬送されるというのに、現在は水上バスに乗船中とはいえないために、今回は僕が入院した病院に行って手続きすることにした。

 まぁ病院に着いてからも、長時間待たされて、色々あって.....。バラエテイに富んだ一日であった。夜、母たちと蕎麦屋で夕食をとったが、焼酎の蕎麦湯割り数杯で、酔いと疲れがドッときた。呑みながら、また入院費が必要になったが、昼に検温なんかしなければ、親父を銀行に連れて行けたのにという話題になった。しかし、僕は検温していただいてよかったと思う。無理矢理に親父を銀行に連れて行き、定期預金を解約させて、直後に死なれでもしたら、我々はかなりの銭ゲハとして扱われる危険性がある。

 今日の東京も雪がまだ残っていて、かなり寒い。帰宅して、お風呂に入ってから、こうして焼酎をのみながら、一日を記録している。どうもまた酔ってしまったようだ。それにしてもブログはありがたい。こうして一日の出来事を記述していると、妙に落ち着いてくる。変に感情的になっていても、自分を客観的にみることができて、まぁまぁ仕方ないじ゜ゃないのとか、善哉善哉良き方向に進んでおるのじゃと納得できたりする。

 病院では、10日前に兄が死んだことを数人のドクターや,看護師に話したが、同情してくれつつも、日常的に死と向き合っている医療職の方々は冷静に聞いているようだった。

 今のところ、親父はすぐに兄のところへ行くことはなさそうだが、84歳という年齢を考えると急変する怖れもあるという。

 こんなに、ほぼ毎日、お袋と会って食事しているのは、子どものとき以来だなあ(^-^;

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2013年1月14日 (月)

兄貴と加藤諦三

 昨日は母を日帰り温泉につれていった。この一週間の疲れを癒し、気分転換を図ってもらおうということで、レンタカーで埼玉県野田市まで行ってきた。

 僕は入浴後、まだ女湯から出てこない母と奥さんを休憩室で待っている間に、加藤諦三氏の本を読んだ。さっと読みながら、違和感を覚えていた。息苦しくなってきた。

 加藤諦三氏は心理、生き方に関する著書を執筆しており、僕が中学生のときに兄貴が加藤諦三氏の本をむさぼるように読んでいたのを記憶している。加藤諦三氏に感銘した、救われたという人は多く、出版された本の数も膨大な量である。加藤諦三氏によって、自分の生き方や考え方に良い影響を与えられた方々が沢山いることは承知しつつも、僕は兄貴ほど心酔できなかった。

 約20年前に僕はまったく未知の組織に2年間派遣され、アウェイ状態であったが、なんとか打ち解けることができた。そこで出会った10歳位年下の職員から、加藤諦三氏の本を読んで感銘したと打ち明けられた。

 それは、はっきりと覚えていないのたが、嫌な人間とはつきあうことはない、離れているべきというような内容だった気がする。それに対して、僕はそんなに簡単に人を区別できるわけがないだろうし、相手がイヤだと思った途端に離れるというのは料簡が狭すぎると批判した。

 僕が中学生のときに特に影響を受けたのは、加藤諦三氏ではなく、大山倍達さん(高校受験面接時に尊敬する人物としてこたえて落とされた)、宮城まり子さん、そして淀川長治さんだ。特に淀川さんからは人生の三つのスローガンを教わった。 

 welcome trouble 苦労歓迎

 welcome strenger 他人歓迎

 I never met a man, I didn't like 私はまだ嫌いな人に会ったことがない

 そのスローガンが僕の中では大きな位置を占めており、「嫌な人間だったらつきあうな、離れろ!」ということを緊急避難的に必要ならば仕方がないが、人生の指針とするのにはいささか抵抗を感じたのだった。

 話を現在に戻そう。亡くなった兄貴は、子どものときの母との関係が自分に影響を与えていると、よく口にしていた。それは僕自身も親の影響を受けているし、誰しもがそうだろう。しかし、兄貴の場合は、年齢を重ねても、その呪縛から離れていないような印象があった。

 昨日さっと読んだ加藤氏の本には、自分が悩み苦しむのは親の影響によるものと断定的に書かれているようだった。そのことが気になり、今日は東京は雪が降っていたが、図書館まで行って加藤氏の本を2冊借りてきた。読み始めたら、上から目線で、誰かのせいにして(主に親)、解決方法がはっきりしてない文章に、気が重たくなってしまった。窓の外を見たら雪が積もっていた。

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 正直言って、兄貴は両親を含めた近親者たちとの接触を避けていたように思う。毎年正月になると兄貴の娘一家たちが母の実家に集まり、僕も参加しているのたが、長い間顔を出すことはなかった。2年くらいの間に、近親者と会わない時期もあった。

 人当たりがよくて、優しいと言われていた兄貴は、いったい何を避け、何から逃げていたのだろう。加山雄三と加藤諦三が好きで真面目に振舞っていた兄貴の胸中は、もっと複雑で、叫び続けていたのではないか。そして、その姿を人に知られることを怖れていたのではないか。

 兄貴が眠っていた御棺の中には、加藤諦三氏の本3冊が入れられた。そのことが僕の頭から離れずにいる。兄貴は加藤諦三氏によって救われた面があっただろうし、逆に引きづられ過ぎてしまった面もあったのだと思う。

 来月の49日法要が終われば、兄貴はこの世を去った存在として、仏壇の中に入る。不謹慎かもしれないが、こうして、僕が兄貴と多大な影響を受けた加藤諦三氏のことを考え、整理しているのは、僕の中には兄貴と同じ部分があるからだ。

 僕は兄貴と共通する葛藤、自己憐憫、疎外感、そして希望、人間としての郷愁を抱きながら、この世を生き抜いていこうと改めて思ったのだ。それが兄貴への供養になるのだと信じながら。

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2013年1月12日 (土)

葬儀終了

 兄の葬儀が終わった。

 突然だったため、兄の死についての実感が持てないでいたが、火葬場で焼かれて灰と骨になった姿をみて、もう肉体としての兄貴がこの世に存在しないことが実感としてわかった。やっとわかった。

 幸い、両親は健在であり、母は現役で仕事をしており、父は特別養護老人ホームに入所している。今回は、改めて母の凄さを感じた。母は仕事に穴をあけて、誰にも迷惑かけたくないということで、通夜の日も、告別式の日も、朝早くに仕事を済ませてから式に臨んだ。

 両親には3人子どもがいた。姉は50年前に幼くして肺炎で亡くなった。兄も一週間前に心不全で亡くなった。僕は両親にとって唯一の子どもとなった。二人の子どもが、自分たちより先立っていったことで母のショックは大きく、兄の死を聞いたときも一晩中泣いていた。当然であろう。

 しかし、彼女は持ち前の気丈さと積極的精神で、子どもの死を受け入れながらも、現世にこうして生きている現実をしっかりととらえながら、前向きに生きようとしている。

 ※こうしてブログで、どこまで個人的なことを書いていいのだろうかと迷うのだが、日々の生活を記す日記でもあるので、ある程度は記録しておこうと思う。

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 兄の葬儀に関しては家族葬にして、ひっそりとやりたいという意見もあったのだが、結局、多くの親戚、友人知人が参列してくださり、祭壇にも多くの花が飾られた。予想外の人数でお清めの席も足りなくなり、順番待ち?になるというアクシデントもあった。

 また、祭壇脇には故人の思い出の品として、カメラと書籍が飾られていたが、よくみると兄貴が好きだった加藤諦三氏の書籍で、なんとタイトルが「うつ病は重症でも2週間で治る、もし...」、「眠れない人のための心理学」、「淋しい人ほどいい顔する」という3冊であった。

 どうも、タイトルだけみると、葬儀に飾る故人の愛読書としては如何かと思ったのだが、どうやら加藤諦三氏の新しい本だったらしくて、カバー帯もついて綺麗な状態たからということらしい。お棺に献花するときにも、兄の胸のあたりに本を開いて飾ってあったので、「うつ病」という題名部分にそっと花を置いて隠したのだが、兄嫁が花を整理して、どかされてしまったのだった。(念のため、兄はうつ病ということではなく、加藤諦三氏ファンということです)。

 告別式は普通、会食のあとに解散ということになるが、数日前に母からわざわざ親戚や友人たちが集まってくれたのだから、葬儀後、どこかに連れていきたいが、どこかいい店はないかと頼まれていた。午後2時半頃でやっている居酒屋チェーンはあるのだが、その手の類はどうもイヤなので、知り合いの蔵前の割烹居酒屋にお願いした。

 お経をあげていただいた住職もお誘いしたら、葬式のあとの二次会というのは聞いたことがないと驚かれていたが、結局、ご一緒に二次会参加となった。

 タクシーで移動し、15人ほどでかなりワイワイと盛り上がった会になった。こんなに盛り上がっていいのだろうかというくらい、良い会であった。これも兄貴のおかげなのだろう。

 そして、5時にお店を出てから、母宅で8人で三次会? となり、これも盛り上がった。

 僕はかなりの量のお酒を飲んだのたが、今朝は酒が残ってはいるが二日酔いにはなっていない。

 そのようなときに、そんなに飲んでは不謹慎ではないかとお叱りをうけるかもしれないが、多分兄貴もみんなの姿を見て笑ってくれているのではないか。兄貴の死については、葬儀が終わって、ジワジワと感慨深く、切ない想いが湧いてくるのだろう。

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 今日の夕方は、親父の特養に母、奥さん、娘たちと訪れた。

 兄のことは黙っていようかどうか、僕と母は迷った。

 でも、今日は賑やかな人数で来ているし、父に認知症があるとはいえ、父子のことに隠し立てするのはやめようということで、母が切り出した。

 親父は動揺し、目に涙が溜まっていた。認知症があるとはいえ、親父は状況を認識し、父親としての感情が溢れ出したようだった。部屋中になんとも言えず、哀しく、切なく、しかしどこか優しい空気が漂っていた。

 少ししてから、長女が今年の6月に結婚式を挙げる話をしたら、親父の顔つきが穏やかになって、微笑んでくれたので一安心したのだった。

 兄と僕は特色ある家庭環境を共に過ごした同志であったが、二人の性格はかなり違うと言う人は多い。多分、ひよっとしたら兄貴もそう思っていたかもしれない。でも、僕は共通項がかなりあるはずだと感じている。とりあえず、兄貴が好きだった加藤諦三氏の本を読んでみようと思っているのだ。 

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2013年1月 9日 (水)

兄貴

兄が亡くなった。

私には兄弟がいなくなった。

 1月4日の午後10時頃に突然、自宅で体調が悪くなり、救急搬送されたが、すでに救急車の中で心肺停止状態になっていた。私が午前12時半頃に病院の集中治療室に行ったときは、無理矢理に機械で心臓マッサージ、人工呼吸をしていたが、すでに自力で心臓を動かすことはできなくなっており、これ以上は本人が可哀想ということで機械をはずした。

 死因が特定できないということで、午前2時過ぎには警察による検死作業がはじまった。最終的には虚血性心不全という結果がでた。先月62歳になったばかりであった。

 私と兄とは10歳違いで、年齢的な隔たりがあって、一緒に遊んだり、喧嘩したりということはあまり記憶にはないが、色々なことを私に教えてくれて、その影響を受けたのは確かである。

 実家が山谷のドヤと呼ばれる簡易宿泊所であったため、数多くのいわくつきの男たちと生活していたのは、元旦のブログにも書いた。そこではひとつ屋根の下で、トイレもお風呂も男たちと一緒であり、私たちは共同生活しているようなものであった。

 当然、子どもにとっては、いわくつき男たちから受ける刺激は一般的なものとは違って、刹那、孤独、退廃、犯罪、逃避といったドロドロとしたものがあり、教育上は好ましくはない。100人からの荒くれ男どもの中で暮らす4人家族というのは、かなりのスペクタクルであるが、幸い、私の両親はしっかりしていて男たちを仕切っていたため、家族としてはある程度健全に?成立できていた。

 強面の父親と、姐御肌の母親のなかにあって、兄貴は真面目で中立的な立場にいた。私は兄貴がいてくれたおかげで、音楽や映画、読書、ギター演奏、社会のことなどを教わり、エキセントリックなドヤ世界から離れた避難所としての別世界を垣間見ることができたのだった。

 その兄貴も就職、結婚して家を出て、数年後に勤めていた食品会社をやめてからは、ずっとアルバイトとして働いていた。真面目な性格であったが、父母にも経済的な面倒をかけたり、人間関係から逃避したりして、正直言って私にとってはあまりいい印象をもてなかったのも事実だ。しかし、歳をとっても純真で真面目でいられた兄貴というのは大したものだとも思う。

 まさか、こんなに突然に兄貴か死んでしまうなんて.....。未だにリアルな実感がもてないでいる。

  真面目で、理想主義で、人当たりが良かった兄貴よ。

  突然の逝去で、本人が一番驚いているだろうけど、自分の人生はどんな人生だったと思う?

    先にあの世にいっている、妹や親戚たちのいうことをよく聞いて、ちゃんとこの世とあの世の橋を渡ってくださいよ。

 明日は兄貴のお通夜だから、家族、親戚、友人たちが兄貴のために集いますから、最後のあいさつをしてください。

 あの世の先輩方、どうぞ兄貴のことをよろしくお願いします。

 

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2013年1月 1日 (火)

ヨイトマケの唄

Cimg2175_2     今日から2013年がはじまった!!

  今日の朝は、清々しい青空で、東京スカイツリーも映えていた。マンションの踊り場から空とツリーを臨みながら、今年はスカイツリーのように 真直ぐに、ドデンと地に足をつけ、華々しく生きようと思うのであった。

  昨日は、親戚が集まって、我が家で年越しパーティーを行なった。酔っ払って、大晦日にもかかわらずどうでもいいようなハナシばかりであったが、紅白歌合戦の美輪明宏の「ヨイトマケの唄」がはじまった瞬間、皆は画面に集中した。

Ent12123123080021n1  僕にとっても「ヨイトマケの唄」はとても特別な歌である。唄の主人公と自分がダブル部分があるのだ。

 僕は東京の山谷で生まれ育ち、家が簡易宿泊所(通称ドヤ)であったため、労務者たちと一緒に暮らしていた。100人近くの土方等の肉体労働者、手配師、エセ?坊主....などのユニークな存在たちである。

 こどもの頃は、自分のうちのことで差別されたり、いじめられたりしたこともあった。自分の生い立ちに対して、コンプレックスを抱いたりもした。

 しかし、若くして簡易宿泊所の管理人となった我が母は苦境にも負けずに、荒くれ男たちと同じ屋根の下で働き、家族の世話をした。彼女の人生はドラマにできるほどの劇的なものだ。

 僕は「ヨイトマケの唄」に出でくるような働く土方たちと共に暮らし、世間からの差別を味わい、強く生きる母から支えられてきた。幸い、「ヨイトマケの唄」とは違って、母は現在も元気で傘寿を迎え、現役バリバリである。

 僕も、中学高校と決して真面目な生徒とはいえなかったが、僕が成人してから、簡易宿泊所で暮らしていた手配師からは僕がヤクザな道を歩むと思っていたと言われた。しかし、現在はかなり固い職業についているのだ。 

 僕は、自分の特異な生活体験が現在の僕をつくっていると実感している。自分の中には少年期の挫折と劣等感が根強く残っており、いまだに自分を苦しめることもある。しかし、それによって自分は鍛えられ、逞しくなり、また探究心が旺盛になってきた面もある。

 実は19歳のときに、今はなくなってしまった渋谷ジャンジャンで、美輪明宏さんをのステージを観た事がある。100人くらいの小さな劇場で間近に観ていたが、ラストの「愛の讃歌」は圧巻で、僕は自分の意識が天井に向かって登っていくような感覚を味わった記憶がある。

 m(_ _)m さて、この稚拙なブログをご覧いただきありがとうございます。

 今年もバリバリでいきます! 莫妄想と上機嫌でいきます!

 よろしくお願いいたします!!

  

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