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2011年11月

2011年11月27日 (日)

紅葉狩り 奥多摩 秩父

今日は紅葉を求めて、浅草から奥多摩湖、桧原村、秩父、飯能と強行軍であった。レンタカ-を午前8時半から12時間借りており、午後8時半にはなんとかギリギリで返却できた。あぁ~よかったぁ~。

 2週間ほど前に京都に紅葉を求めていったが、まだ時期が早かったため真っ赤に染まった紅葉がみれず、今日は再チャレンジ。 

 いろいろとコメントしたいのだけど、帰宅して1時間ちょっとの間に、一気にビールとサワーを飲んで、ワインなうのため、最小限のコメントでいきます。なぜ、そんなにまでして早くUPししなければならないのか?

 それは、多くの方々の紅葉情報を参考にさせて頂いたおかげで、今日も充実した一日を過ごせたからです。その恩返しです。酔ってきたから、変な部分はお許しくださいませ......。

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 まずは最初は、渋滞レスで奥多摩湖に行きました。湖は綺麗でも、紅葉は期待していたほどの場所は発見できず、桧原村方面に行きました。
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 昼時になったので良い店はないかと探した結果、すてきな茶房を発見しました。そこではランチプレート1500円をいただきました。普段はサラダが苦手な私ですが、とても美味しくいただけました。

 022それから、北野武監督のDOLLSのロケ地だった鳥居観音にまいりました。時間はすでに3時をまわっておりましたが、紅葉は綺麗でした。 025_3

 駐車場のおじさん曰く、朝は陽が当たってとても良い景色だそうです。少し残念でした。観音さまは200円払うと中に入れます。展望台まではかなり昇ります。

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 紅葉は綺麗でしたが、ピークは過ぎてきたようです。

 

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  鳥居観音からクルマで約30分ほどかけて、東郷公園 秩父御嶽神社に到着。すでに4時を過ぎており、タイムリミットを意識しつつ、境内をすすむと、凄い紅葉がありました。   奥さんは風邪気味なので、マスクしています。それから、京都に行ったときの峰定寺での修業時に杖が必需アイテムだったので、今日も使ってます。

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 東郷元帥の銅像がありました。この方は中村天風先生の弟子でいらっしゃいました。
 失礼ながら後姿の写真も撮らせていただきました。

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 今日は11時間半で、350キロ走行しました。なんか、紅葉狩りというよりもドライブだったようですが、かなり濃厚な時間の使い方をしました。今回頑張ってくれたのは、日産マーチくんでした(*^-^)

 平均年齢というものがあるが、紅葉をみられる年も、あと30回はないんだろうかなぁ..多分.....。

 この世は美しいなぁ.......゚゚(´O`)°゚

 

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2011年11月26日 (土)

パニック映画は人生の教科書だった

Imagesca5cjdkb_3  韓国映画「TSUNAMI -ツナミ-」は昨年日本て公開され、今年の1月にDVD発売された作品、。いろいろと話題になった映画なので関心はありつつ、どうも観る気持ちにはなれなかったが、ついにDVDで鑑賞する。 この手のパニック映画としては珍しく、前半の殆どは長い時間をかけた登場人物たちの紹介であり、普通の韓国ドラマを観ているような感じになった。しかし、よくありがちなテレビドラマのようなシーンをみながらも、これから襲ってくる津波を思うと、その日常というものがいかに脆くはかないものかという気持ちでダレずにみることができた。   

 パニック映画を観ていていると、物語の展開にある種の.類似性があることに気づく。異変に気づいた主人公と、その声に耳をかさない隣人、専門機関、国家たちがいて、対応が遅れたり,誤ったりして、傷口が拡大してから、想定外の事実を認めざる得ない状況に陥る。そして、まあ大抵の場合は、主人公は様々な危機を乗り越えて、最後まで生き残るパターンが多いのだけど。  

  パニック映画から何かを学ぶというのは、自己啓発マニアの領域に入ってしまうようで、どうしようかと思うのだが、ちょっと想像してみることにしよう。 

  映画は最初からパニックが起こるのではなく、たいていはイントロダクションでこれから起こる事件を予感させるようなショキングな場面だったり、あるいは、全く今後の混乱には触れないで淡々と登場人物たちを紹介するような場面が多い。最初にショッキングな場面をもってきたとしても、その後は淡々とした登場人物の紹介シーンになるのが殆どである。  

 ここでは、日常生活をとりあえず、描写しておくというのが、パニック映画のミソであるように思える。つまり、これから起こるパニックは、特殊な時空の話ではなく、観客のみなさんが生きているこの世界のことなんですよと、釘をさしておくのだ。 

 それからが、何かを知ってしまった主人公は、みんなに大変なんだと伝えようとするが、誰も聞き入れてくれない。映画はフロンティアというのは孤独なのだということを教えてくれる。もし、主人公が話して、すぐにみんなが信じて動き始めたとしたらどうだろう。どうも、映画に対する面白みが半減してしまうだろう。なかなか想定外のことを人は受け入れられないが、気づいた者はあきらめていはいけないと映画は伝えている。  

 やがて、ただならぬ事態に直面された人々は、阿鼻叫喚の中で、パニックを起こし、中には自分勝手な暴走をはじめる人も出てくる。ここで、主人公は人助けに奔走する。けっして自分だけ生き延びようなどと考えずに、ひたすら走る、わめく、知恵を出す、励ますといった人間的な努力、出力を全開させ、誰かを助けることに尽くす。まさに、他者への奉仕、自我の忘却が大切だということを、スクリーンから投影される。  

 やがて、最後は、あっというようなクライマックスを迎える。非現実的な(まぁそもそも映画自体が非現実的なものなのだけど)奇跡のような解決にいたることが多い。大抵は主人公と恋人、家族は生きのびるようだが、アルマゲドンのように主人公が生命を投げ出して、人類を救出することもある。いずれにせよ、パニックが起こっても人類は生き延びるということである。決して、どしゃぶりの雨のような状況でも、必ず晴れるときが来ると人生訓めいた教訓を伝えている。 

 そうなのだよ。 パニック映画は教訓の宝庫なのである。「この世界には未知の出来事が起こりうるものだ」「フロンティアになるということは、周囲からの理解をなかなか受けられない孤独だと自覚せよ」「混乱時こそ、自分を捨て、他者のために生きよ」「嵐は続かない晴れ間が必ず来る。まさに念ずれば花開く」。...

 

 .なんか無理矢理の感もあるなオレ.....。まぁ、でもおバカ映画が大好きなわたくしとしては、変に複雑に歪曲された人間ドラマよりも、まったくのバカ映画の方が、妙なリアリティーがあったりするのが不思議。.

  東電幹部や、保安院の方々は、推測するに司馬遼太郎や、ビジネス書を好んで読まれていたはずです(かなり強引な解釈..)。勿論、私も愛読しましたが、少しでも御馬鹿なパニック映画をきちんと鑑賞なさっていれば、映画に出てくる自分の立場に固執して、未知の事態を鼻にかけない登場人物たちと同じになってしまうことを、回避できる可能性も少しはあったかもしれません(ちょっと無理やりですが)。

 

その他鑑賞メモ

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「アジャストメント」

 この映画は、自己犠牲・他者奉仕というよりも、自分の欲するものは追及せよ、たとえ天使たちからの忠告であっても無視せよ。そうすればうまく勝ち取れるという、いかにもアメリカらしい映画。天使というか、神というか運命を計画しているキャラクターが、なんなのかよくわからなかったなぁ。

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「トロピックサンダー」

ほんとうのバカ映画(誉め言葉ではなく)。これもアメリカ受けらしいギャグ満載。一応、前文のパニック映画の解釈対象外。

 

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「川の底からこんにちは」

 お化け映画ではない。こういう小ぶりなユーモアとヒューマンタッチな映画は日本映画の得意とするところ。観た後は心地よさが残った。 

 所詮、自分たちは中の下なんだから、頑張ろう。好きとか嫌いとかは置いといて、やらなくちゃならないことあるでしょう。....こういうメッセージはアメリカ映画にはないよなぁ。

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2011年11月20日 (日)

ゴダイゴ礼讃

 lovelyここはゴダイゴファンでなければわからいかもしれない部分.....

Photo1_20142 昨日、渋谷でゴダイゴコンサートが開催されて、なんとyahooのトップ記事になっていた。多くの新聞やテレビも報じていた。じつは何を隠そう僕はゴダイゴファン35年生なのだ。 

 ゴダイゴがデビューした当時は、僕はドゥービーブラザース、サンタナ、デイヴメイスン、国内ではクリエーションとかコスモスファクトリーに凝っていて、ゴダイゴのことを中途半端な軟派バンドとして馬鹿にしていたのだった。 

 しかし、テレビで西遊記が始まり、ガンダーラ、モンキーマジックに惹かれ、アルバム西遊記を友人に借りてファンになってしまった。そして、1977年に発売されたアルバム「DEAD END」に圧倒され、現在でも僕の中の名盤となっている。 

 ゴダイゴ人気が大ブームになっているときは、コンサートを聴きに行ったり、ゴダイゴのロゴ入り長袖トレーナーを日常的に着ていて、周囲からバカにされた(当時のブームは児童年齢中心だったせいか;ω;)。 ゴダイゴのアルバムは勿論、タケカワユキヒデのソロアルバムも買った。解散後は、彼のソロコンサートにも行った。 

 1999年の再結成時は、栃木で研修があったのだが、うまくすり抜け新宿厚生年金ホールに観に行った。同年、アルバムも発売されて、中でも「WE'VE GOT TO GIVE THE EARTH A CHANE(地球を我が手に) 」は本当に名曲である。 

 最後に行ったコンサートは、2007年の東京芸術劇場の「2007 TOKYO 新創世紀」だった。その日はアルバム「DEAD END」中心の構成で感動した。特に僕の大好きな「孤独な面影」が大コーラス隊と合唱され、涙ボロボロであった。 

 若かりし頃はゴダイゴファンということで、色々と弾圧?されてきたが、こうして2012年を迎えようとしている現在も、ゴダイゴが彼ららしい音楽を創造していることを誇りと思う。ゴダイゴが長続きしているのは、年齢を重ねてもメンバーがそれぞれの個性的な生き方をして、 お互いを認め合っていること。曲目が若さや情愛だけではなく、社会や世界、宗教といった世界観を持ち、構成も組曲など多様なカテゴリーにわたっていることであると思う。  

  オーバーな表現だけど、自分の人生で、こんなに長く愛せるアーティストがいて幸せな男だと思います(*^-^)。

 ※先日発売されたGODIEGO BOXは3万円ぐらいする。どうしよう....(`ε´) 

 ※3年位前に、仕事関係でタケカワユキヒデさん招いたイベントがあって、責任者が友人だったため、サインお願いしたら、ホントに色紙に書いてもらってくれた。しかし、やはりできればゴダイゴのサインがいいなぁと思ったのでした。

 ※昨日のコンサートは、奥さんが仕事だったため断念。ゴダイゴを一人で聴きにいくのは何か違和感があり、こういうのは、やはり夫婦で行きたいと思うから(*^.^*)。

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2011年11月19日 (土)

仕事をするときは上機嫌でやる

昨日のブログで京都清水寺前の張り紙「仕事をするときは上機嫌でやる」を貼り付けながら、そういえば数年前に斎藤孝「上機嫌の作法」を読んだことを思い出し、お風呂に入りながら読み返してみた。 

 ・不機嫌さは「なんらかの能力が欠如しているのを覆い隠すため」だとしか考えられません。

 ・不機嫌な人を尊重するような社会を容認してしまっては、歯止めが利かなくなります。不機嫌というものは何の力もでもないことをはっきりさせ、社会に認識してもらいたいと思います。

 確かに人生いろいろあったけど、思い返してみると、不機嫌な人たちというのは、何かを隠そうとしているタイプが多かったようだ。それは大人というよりも、駄々っ子のような幼稚な存在のイメージがある。そういう僕自身は割と不機嫌にならないタイプだと思っていたが、仕事を真剣にやろうとすると、眉間に皺がよって恐い顔をしていると指摘されたことが何度があった。反省。

 ・知的な人間は、やたらとニコニコ愛想よく振舞ったりしないものだという思い込みもある。作家や学者というのはどちらかというと根暗で不機嫌なものに違いないというイメージ。しかし、実は作家も学者も本当に頭のいい人は知的かつ上機嫌な人が多い。

・今は「バカで不機嫌」が増大中です。気分をコントロールできるということは社会性があることだという意識を確固と持ちましょう。不機嫌が癖になると、動きにくくなります。運動不足と同じように、こころの運動能力が下がってしまうのです。

 「バカで不機嫌」が増大中というのが、面白くガツンときた。上機嫌に対するイメージも、ご機嫌伺いや媚びへつらい、というようなマイナス先入観がある反面、仏頂面をしてドッシリと構えているのが、頭を使っているような気がするのも事実だろう。インターネットで調べると仏頂面とは「仏頂尊の恐ろしい面相にたとえたもの。不機嫌ににふくれた顔つき。」とある。仏像の恐い一面をそのまま表現して、不機嫌に生きるのはどうなんだろうか。 それが得なんだろうか、幸せなんだろうか。

 合気道を稽古しているとわかるが、不機嫌な顔を実際にして、相手にからだを押させると身体が硬直化し、簡単に崩れてしまうが、笑顔をつくって相手に押させると、身体は柔らかく安定し動かない。 

 反応の速さ、周囲に対する感応力、柔軟で安定した身体の動きはこころが落ち着いた状態、特に上機嫌のときに最高のパフォーマンスを発揮するように思うのだ。 これからの時代は仏頂面だらけの集団組織ではなく、まさに上機嫌な人間集団こそが、困難な状況を切り開いていくのだろう。

 さてさて、今日はこれから奥さんが仕事から帰ってくるので、昨日買ったボージョレーヌーボーを上機嫌に飲みましょうっと。

 ※今日は大雨と強風のため、昼に茹で太朗に行った以外は、家で過ごす。昨日買った内田樹「呪いの時代」読破。DVD「スカイライン」を鑑賞。映画館で観なくて本当によかったパニックムービーであった。

 

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※一昨日観たクリントイーストウッド監督「ヒアアフター」はとてもよかった。津波シーンが出てくるため、3.11と公開が重なり、途中で上映中止となった映画。死の世界に存在する人と現実世界を生きる者とのドラマだが、オカルトチックではなく、ヒューマンドラマとして完成されている。マットImages_3・ディモンを見直した。

 

 ※先週観たのは「英国王のスピーチ」。ラストシーンでは、指揮者が指揮棒を振るようにスピーチ指導をしていた。スピーチは言葉だけではなく身体性が肝だと勉強になった。 

 

 

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京都 紅葉 その2

  今朝の東京は雨。 京都も雨だろうかなあ。さて、コーヒー飲んで、シャキッとし134ようっと。

 

 京都3日目の最終日は、平日のため市内も多少は空いているだろうと思い、夕方までの時間をタップリと京都市内堪能しようと、早起きした。ホテルの窓からは、きれいな朝陽が拝めた。

 まずは、石庭で有名な龍安寺に8時オープンと同時に訪問する。観光客は殆どいないため、石庭を独占して得した気分(その煩悩に気づけ!)。広い池があり、景観も素晴らしかった。

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 続いて、龍安寺からクルマで数分のところにある金閣寺へ。修学旅行などの団体客が多く、大混雑状態。さすが金閣寺だ。

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 鐘を突くのに200円。誰も突いていないので、景気づけにチャレンジしてみる。

 周囲を団体客がゾロゾロと歩いているので、少々恥ずかしかったが、心をこめて思い切って突いてみた。ゴーン....。 お世辞もあるかもしれないけど、出口にいたおじさんから良い音でしたと誉められて、嬉しかったなぁ。

 

 そして、三番目のお寺さんは、実相寺。 美しいみどりが有名だが、写真撮影は禁止のため、園庭側からの撮影。

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これでは、なんか少々むなしい感じがするので、館内にあった写真パネルを撮影するというかなしい行為に出る(左側写真)。

 

 

 

 午前は3ヶ所の有名なお寺を、渋滞レスで廻ることができた。しかしその後、東福寺に行くと駐車場が無く、周囲にもコインパークが殆どないため、一旦あきらめる。

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 ビールを頼んで、ぐびっと飲む。とても美味しい、喉越しOK...ということで、もう一本追加する。周囲を見渡すと皆さまあまりお酒を召し上がっていないご様子であった。

 

 

 

 ほろ酔い気分で、まだ少々新幹線までの時間があるため168、今度はバスと電車で東福寺まで行く。

 

 やはり、紅葉はほんの一部であったが、通天橋から眺める景色はまずまずであった。

 

 

 ということで、今回の京都紅葉旅行は、ちょっと時期が早すぎたようであったが、15ヶ所ほどのお寺を巡ることができて、秋の京都を堪能できた。

 今回はレンタカーといっても、京都のお寺めぐりだから、走行距離はせいぜい数十キロで、100キロも走ることはないだろうと思っていたら、とんでもない250キロほど走ってしまった。これでは寺院巡りというよりも、ドライブにきたようなものである。しかし、郊外のなかなか訪れることがないお寺にも立ち寄れて、良い体験ができた。

 

 京都郊外や早朝の静かなお寺にいると、市内の人だかりで混雑したお寺での、人間の不自然さが浮き彫りになる。喧しいのである。

 自然や、石庭に居ても、そこに調和するということは、静けさを保つということであろう。世事や、マスコミ情報を核とした日常意識のまま、寺院での会話をする人々が多く感じられた。その違和感がどうも気になってしまうのだ。(まぁこうして偉そうに言っている自分自身もきっとそうなんだろうなぁ)。 

 京都の素晴らしさは、建造物や自然の美にあるのだが、決してそれだけではない。宗教としての歴史と現実がそれらの中心にあるから、京都は素晴らしいのだ。当たり前のことのようだけど、観光客は京都を観光地としてとらえがちではなかろうか。 

 ここで想像してみよう。もしも、京都の寺院が、仏教家でもない仏像、仏具のコレクターがつくったテーマパークであったら、どうだろう。姿カタチは現在の京都と同じであっても、本当に宗教としての実践、宗教を生業としている存在がいなければ、張子の虎のようなものであり、京都の深みはないはずだ。人々が京都に惹かれるのは、形式美だけではなく、そこにある仏教の精神、それを支え信じ苦しんできた歴史上の存在たちを感じ取っているからではないだろうか。 

 

 今回の旅行は、美しい艶やかな紅葉と寺院のコラボレーションを観たいということから始まったのだが、郊外の寺院を巡ることになって、京都寺院に対する見方が少し変わったようだ。寺院には静かな気持ちで接すべし。そうすれば門を開き、新たな世界を見せてくれる......

 

  最後に小さいながら頑張ってくれたIQの写真.....

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2011年11月18日 (金)

2011京都 ちょっと早い紅葉めぐり

 今日は、10日振りに合気道のお稽古に行く予定であったが、部下が係長昇任することになり、お祝い会となり、それなりに飲んできてしまった。先週末に行った京都のことも書かねばと思いつつ、数日過ぎてしまった。最近は、あまり酔った状態でブログをなるべく書かないようにしていたので、先ほど帰宅して、お風呂に入って酔い醒ましして、書いてます(といいつつ、梅酒のみつつですが)。

 

 京都の紅葉をみるため、数ヶ月前から11月12~14日の旅行を企画していたが、今年の紅葉は暖かい気候のせいで遅れている。

 インターネットで京都の紅葉情報を見ても、殆どが青葉が色づき始めであった。まぁ、それでもよい。市内が駄目でも、レンタカーを借りて郊外に行けば何とかなるだろうという甘い考えで始まったのが、今回の旅行である。

 12日は8時過ぎののぞみに乗り、10時半ごろに京都に着いた。そのまま新幹線口にあるトヨタレンタカーに直行し、前から乗りたかったリアルチョロQの「IQ」を48時間借りた。 

 ネット上では、神護寺が7分咲きとなっており、よしよしと1時間ほどかけて山のドライブをして、到着。全体的に7分というよりもほんの一部であった。そのまま西明寺、高山寺にも足を伸ばす.....

.....だんだん眠くなってきたため、コメントは最小限にして写真を中心にします(*v.v)。

神護寺 (何と偶然にも、結婚式にも参加して頂いた奥さんの仕事上の恩人、Y所長ご夫妻と遭遇した)

 
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 そして、夜のライトアップがある嵐山の大覚寺と宝厳院へ....

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二日目は、郊外ドライブとなり、京都市内から約1時間半かけて、峰定寺に行く。9時到着。寺務所の女性に市内からきましたというと、こんな時間に市内から来る人はいないと驚かれた。ここは、修験宗の寺院で、観光気分だと痛い目に会う。本堂に行くには15分ほど登山することになり、所持品は財布以外は、社務所に預けなければならない。カメラ、携帯を預け、杖をつきながら六根清浄、六根清浄と唱えながら、山道を登った。京都のお寺めぐりはるるぶに掲載されているようなちょっとお洒落で、楽しいものではなかったぁ....。でも、本堂について、しばらくじっとしていると心がとても落ち着いた。また、途中で鐘を叩いて鳴らすのだけど、山中に響き渡り、異次元の世界に連れて行かれそうな気持ちになった。                

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 その後、山中ドライブとなり、志明院を訪れる。ここも、紅葉には早かったが、蛇がいたり、清水寺っぽい舞台づくりがあったり、ここも宗教の原点を体験できるお寺さんだ。帰りり際に、お寺の奥さんと話していたら、常照皇寺に行ったかときかれ、行ってないと答えると、峰定寺に行ったら、そこによってから、志明院というのが理想的なコースらしい。親切にいろいろと行き方を教えてくださったので、また戻り道になるがトライすることにした。

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 常照皇寺も、ゆったりとした時空間を体験できる貴重なお寺さんだった。奥さん、おしえて頂きありがとうございました。

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 夕方は、京都市内に戻り、曼殊院のライトアップ。

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 そして、山頭火でラーメンを食べてから、清水寺ライトアップ。かなりの人出で駐車場に苦労した。紅葉はまだまだだったけど、ライトセーバー風の照明が幻想的。

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                          清水寺からお店が並ぶ坂を下りていく途中のお寺の掲示板。写真を撮っていたら、周囲のカップルから笑われた。きっと、仕事に問題ありの男と思われたことであろう(-ε-)

 

とりあえず、二日目まで......

 

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2011年11月 6日 (日)

50歳過ぎても、成長しなければならないのか?

 昨日の朝は駅に向かいながら、これから往復二時間かけて、合気道の稽古にいく俺って変わり者かなぁとか、50歳を過ぎても、人は変化し続けなければならないとか言っている俺は青臭い人間なのかなぁとか、自問自答しながらスカイツリー見物で賑わう吾妻橋を渡っていた。 

 孔子は、四十にして惑わず、五十にして天命を知るとおっしゃっているが、果たして俺は自己確立していないまま、世迷言をいってる男なのだろうかと思いつつ、地下鉄内で中村天風先生の新刊「幸福なる人生」を読む。 

 そして今朝、サンデ-モーニングを見ながら、ミルクティーを飲んでいたら、昨日の迷いがストンと落ちた。人は努力し、成長しつづけける必要があることを。せっかくの日曜の朝だが、とりあえず整理しようっと。

 

 いみじくも、昨日途中まで読んだ「幸福なる人生」には、著名な政治家であり宗教家の老齢者は、この世に絶対的真理などないという立場で、40代半ばの天風先生を糾弾しようとして講演を聴いたら、感銘を受け回心してしまった実例が書かれていた。そういえば、天風会には東郷平八郎とか、松下幸之助といった多くの有名人が入会しており、東郷平八郎はバルチック艦隊迎撃のときに、天風先生の呼吸法をやっていれば、もっと落ち着いて撃沈される敵の艦隊をみれたというような趣旨のことを話したらしい。バルチック艦隊との戦いは東郷が50代後半だったから、かなり高齢になってから語ったのであり、あの神格化された軍人も、天風会で修業し続けていたのであり、人間としての完成を目指されていたのだろう。

 そしてこれも昨日読んだ飯田史彦「生きがいの創造Ⅳ」には、飯田氏への最終回答を光の存在が伝えていた。(.ここからは本の核心部分に触れますから、これから買おうと思っている人は注意して下さい) 

 人間がこの世に生まれてくるその目的とは.....「信じることに、挑戦する....」

 愛するは宇宙で最も大切なことだが、あまりにも深い概念のため、すへでの相手に対応させる指針としては、表現として現実的ではない場合があるらしい。昨日書いた選挙の事例をあげれば「候補者の全員を愛してみよう」という表現よりも、「候補者の全員を信じてみよう」という表現の方が適切であるように。 

 「試練に挑戦し、逆境を喜び、自分を信じもあらゆることから学びながら、大いに挑戦するのです。」                                                  「挑戦しなさい。自分の力を信じ、相手の力を信じ、相手の心を信じて、深く傷ついた方々の、真の心の同伴者になれるよう、努力し、挑戦するのです」

 僕の解釈だけど、四十にして惑わず、五十にして天命を知るとは、絶対的な安心立命を確立して、何事にも動かない座ったままの達磨像ではなく、自分の欲望、エゴの囁きに惑わされず、自分がこの世に生を受けた意味を自覚し、生きるということだ。

 動かない水は腐る。優れた武道家や芸術家は、決して現状に満足せずに、より高い領域を目指し続ける。人間は動かない固定物ではない。心がひとつのことに留まることは不可能であり、からだも心臓をはじめ内臓や、血液か動き続けており、それらが動かず変化しなくなるのは死んだときだ。 

 なんか、スイッチが入ってきたけど、いまテレビでやっているギリシアEU撤退の危機といったニュースひとつ取っても、世界も安定どころか、混乱し動き、変化し続けている。この激動の世界の変化、大震災や原発等の日本の驚異的な変化過程の中に生きるためには、自分が変わる必要はないと思っているいる限り、そのまま日本も世界も変わっていくことはない。 

 変えてはいけないのは、愛、信頼、助け合いといった(当然すぎるほど当然なのだが)ことであり、それを主軸として、自分の弱さを克服し良い面を伸ばし、社会のためにも小さなことでもいいから行動していくことに努力しなければならない。

 アインシュタインの名言には、「我々の直面する重要な問題はその問題を作ったときと同じ考えのレベルで解決することはできない」というのがある。レベルを変えるためには、私たちの発想、価値観、生き方を変えていくことが必要であろう。

 長くとりとめのない文章になってきたが、人は50歳を過ぎても変化していかなければならないのか?ということについては、是である。そもそも人は心身共に変化して生きる生物である。心だって、毎日一人で部屋に閉じこもって、何の情報や媒体と接しないで生きているわけではなく、何らかの事象体験を積み変化する。

 それだったら、変化に対する姿勢をはっきりさせた方がよい。なんとなく、だらだらとしていても齢を重ね変化していくのだったら、より自覚的に努力し、人間として成長していくことの方が素晴らしい。嫌味な表現だが、その方が生き方としては効果的効率的である。

 今朝はこれからもあらゆる体験を通して、そこから何かを学んでいこうと、改めてこころにきめたのでした。

 

.......話は変わるが、サンデーモーニング(この長寿番組もなんかNHKっぽくなってきたなぁ)でTPP問題を取り上げていた。

 どうもこの問題について、工業製品と食料品を同じレベルで議論するのはどうかと思う。原発問題で私たちは何を学んだのか。誰が悪いのかという責任追及や、フクシマはどうなってしまうのかという声は多いが、原発に対する根本的な反省が少ないように思える。

 原発の危険性を知りながらも、経済効率面を優先して、適格にリスクヘッジしてこなかった現実が今回の事故を引き起こし、パニックとなった。

 日本国内での食料生産も同じではないか。国際競争に勝つためといいながらも、国内での食糧生産が打撃を受けた場合、紛争、天災等のなんらかの事情で食料輸入がストップするといったリスクをどう捉えるのか?

  IT機器や衣料品等の工業製品が不足しても生命にも直接危害は及ばないが、食料品が不足した場合はその比ではない。農作物は製品ではなく、生命に必要な水と空気と同じくらいに必要不可欠だという視点から考えないと、利益性を重視して大失敗した原発と同じ轍を踏むことにはならないだろうか。

 原発事故と国民へのダメージを招いた、本質的なほんとうの原因追求をしているだろうか。反省してきたのか。本気できちんと反省しようとしているのだろうか。 国やマスコミに問うだけではなく、自分自身にも問いかけてみなければ.....。

 

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2011年11月 5日 (土)

「生きがいの想像Ⅳ」 新たな世界へと導かれる本

 昨夜はツタヤで借りたコーエン兄弟の「ノーカントリー」(第80回アカデミー賞最多4部門(作品賞・監督賞・助演男優賞・脚色賞)を晩酌しつつ鑑賞。寝る前に観る映画ではなかった(;д;)。 

 今朝は奥さんはお仕事、僕は電車で一時間かけて合気道の稽古に行った。午前10時~12時まで汗だくの稽古をして、終了後、道友二人と食事しようということになった。猛稽古直後のため、食欲がわかず、重たい料理ではなく、テディベアが飾ってあるようなガールズネイチャーレストランっぽいのがいいと言っていたら、本当に駅前にあってびっくりした。小さな可愛いお店に男三人で食事。ハーブティーとチーズケーキも追加したのでした(*^-^) 

 帰宅してからはシャワーを浴び、洗濯と風呂掃除をしてから読書。一昨日購入した飯田史彦氏の「生きがいの創造Ⅳ」(PHP研究所)を読む。飯田氏は経営心理学者、カウンセラーで、2年前までは国立福島大学の経済経営学教授でいらしたが、スピリチュアル的な著作が多く、有名なのは「生きがいシリーズ」である。 

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今回の新刊は福島在住で、自ら被災した飯田氏が、被災地を巡り「魂の救援活動」を続け、そこで出会った魂たちとの対話、東日本大震災の意味と、これから日本人が進む方向を示唆している。 

 正直言うと、今までの生きがいシリーズは、わかりやすくて良いのだが、僕にとってはそのソフトムードの構成が物足りなく感じることもあった。今回の新刊も飯田氏の優しくユーモラスな語り口で構成されているのだが、今までと違った。 

 世に出ているスピリチャアル系の書籍、カウンセリング等は、自分の想い、受け止め方が中心になっている傾向がある。自分の心の安定や幸福、成長といった視点から、世界を解釈し向かい合おうとしている。政治とか選挙とは距離が置かれがちな領域である。 

 しかし、本書では光の存在との対話の中で(誤解されがちな表現だが)はっきり言う。政治に参加せよと。

 飯田氏が、大震災の対策をきちんとできないで、眼前の政争に明け暮れている政治家の責任を重大視する発言をすると、光の存在は、政治家や政争という現象に問題があるのではなく、政治や人民を権力獲得として利用する、一部の悪質な政治家を、安易に選んでしまう人民に問題があると答える。

 また、信頼できる候補者がいないからと選挙に行かない飯田氏に対して、光の存在は、信頼できる候補者がいるかどうか、あなたは充分に情報を集め、吟味してはいないのではないかと喝破する。そして次のように言う。

 選挙があれば、きちんと候補者を信用し、言動について調べ、投票所へ行き、最も望ましいと思われる候補者に、自分個人の責任として投票すべきなのです。そのようにして、人民が選挙制度の基本を守っていれば、優れた候補者が当選するという当たり前の現象が蓄積されて、素晴らしい政治が行なわれる国が出来上がってきたことでしょう。

 

 本書から政治選挙についてをピックアップして引用したが、そこに至るまでの対話の経緯や、全体的なメッセージを読まないと、理解しづらい部分があろうし、これをきれいごと言いやがってと、はき捨てたくなる人もいらっしゃると思う。でも、その政治を馬鹿にしたり、唾をはいている限りには、何の解決もしない。この現実社会は、批判と中傷、不振と嘲笑に満ちており、根本的な改革や解決策もわからないまま、ニヒリズムに浸っていて、どうして平和で幸せな社会が築けるのだろうか。

 

 この国をどうするかについて、報道をみる限りでは政策アイデアや、テクニカル面に明け暮れているようだが、政治や選挙制度のあり方という基本について、ついにスピリチャアルな世界から、教えられるようになってしまったかと、少々驚きもある。

 そのほか、原子力発電を含めたこれからのエネルギー政策にも、巷に溢れる中途半端な意見と違って、明確にとメッセージを伝えている。

 内容からして当然、いろいろな賛否両論が想像できる本書であるが、様々な震災関係の本を読んだなかで、いちばん勇気づけられ、未来への指針を教えられた。

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2011年11月 3日 (木)

"整体"初体験

合気道のお友達のsinoさんが、整体治療院をオープンしたので、行ってみた。

 マッサージは10年前に韓国の垢すりのとき以来だが、整体というのは初めての体験である。約30分ほどの施術だったが、痛みも力みもなく身体をほぐし、調整していただいた。気持ちよくて眠たくなってきて、もっとやっとほしいなぁとウトウトしていたら時間になった。 

 施術後はなるほど、身体のこわばりがとれ、軽くなっている。日常的に悩まされている身体の固さ、こわばりは温泉に入っても、なかなかとれないものだが、今日はなかなか良い感じだ。 

 施術技術もあるだろうが、施術する側の雰囲気や、会話、心遣いといった要素が効果に反映されるのだろう。

 そのまま、治療院を出て、一緒にきた奥さんと代官山にいってランチをする。その後、コミュニティバスで渋谷に出て、紀伊国屋書店で「有事対応コミュニケーション力」と「生きがいの創造Ⅳ」を購入。

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夕食は、代官山で買った天然酵母クロワッサンに合わせた料理を奥さんがつくった。 

 缶ビールを一本と、シャンペン2杯飲んだだけで酔っ払ってしまった。(昨夜は国土交通省の若手官僚の方や、固いお仕事の方々と飲んだのだが、結構飲んでしまって、今日は少々二日酔い状態だったためか)

 今日は文化の日。明日は仕事だし、日常生活の中ではいろいろあるんだけども、なんとなく幸せだなぁと感謝できる一日なのでした。m(_ _)m

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2011年11月 1日 (火)

花粉と放射線.....パニック

 ここ数日、鼻がムズムズで、鼻水が出る。眼もかゆい、頭もかゆい。くしゃみが連続して出る.....。花粉症である。秋の花粉症になった。 

 一ヶ月くらいまえから、マスクを着用している人の姿をちらほらと見かけたが、大変なのね、ナイーヴなのねと憐れんでいたのだが、ここ数日で同じ立場となった。 

 4ヶ月前に漢方薬の鼻療から、カルピスのアレルケアに変えたのだが、効果がなかったのだろうか。それとも、毎日お酒を多めに摂取しているのがいけなかったのだろうか。 

 いずれにせよ、今日はお刺身を買ってきたので、これから納豆と漬物と一緒に、晩酌をするつもりなのだが.....。

 

 報道では、林野庁が10月31日、スギ花粉に含まれる放射性セシウムを調査し、人体に影なしと公表したそうだ。だが、それによって、「それはよかった、もう来春の花粉シーズンは、通常の症状に悩まされるだけでいいのね」と安心する人がどのくらいいるのだろうか。 

 放射線の測定結果等でわかるように、国民は政府も自治体も信用しないで、自分たちで放射線測定を行いはじめている。その結果、福島原発とは関係がない高度の放射線量を発見し、大騒ぎになってしまった。 

 この数十年間にわたって、ある意味では放射線と共存してきた社会が、原発事故をきっかけに、放射線についての認識が過敏になり、総点検をはじめた。高濃度の放射線が発見された地域で、身体に影響が出ているという報道は見当たらない。ひょっとしたら、あまりオーバーに考えなくてもいいのではないかという思いにもなる。 

 マスコミも、高濃度の放射線発見を待ち望んでいるかのように、過熱報道を繰り返し、不安を増幅させてくる。多分、来春の花粉症シーズンには、記事にできるような数値データを求め、頑張ることだろう。花粉に放射線の影響(どれほど微量であったとしても)を報道した途端、社会はパニックを引き起こす。

 だから、花粉対策マスクとかは、今のうちから準備しておいたほうが賢明であろう。 

 放射線の影響は絶対になくならない。福島の影響であろうと、自然由来であろうと、放射線と共存していくしかないのだ。そのために、排除だけではなく、共存という発想をもって、対応していくことが大切だと今日思った。

 

 決して、人間を排除するようになってはならない。それだけは許さない。

http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/toku/syunju/CK2011101202000151.html

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