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2011年9月

2011年9月27日 (火)

小林よしのり「国防論」

9784093897365今日は、珍しくお酒も飲まずに、書店で購入したばかりの小林よしのり「国防論」を読む。前半は東北大震災と自衛隊の活躍を描き、中盤から自衛隊のあり方、中国脅威、TPPといったテーマになり、最後は原発と国防で締めるといった構成だ。

 被災地支援における自衛隊の報道を見て、彼らの士気の高さや、規律性、献身的姿勢は世界に類をみない優れた軍事?組織であると感じていたが、本書を読んでさらに自衛隊に対する感謝の想いが湧いてきた。まぁ単純かもしれないけど....。

 ただ、中盤の中国やTPPのあたりは、前半の物語にのめりこむような展開があまり感じられなかったのが残念。しかし、最後の原発と国防は、私たち読者にどう選択するのかを強烈に突きつけてくる。

 本書を読み終えて、自問してみた。私たちは、今回の震災で何を学んだのか。
 国や、原子力推進機構、東電の無責任さの追求で終わってしまうとすれば、何も変わっていないことになるだろう。
 原発事故による放射性物質の恐ろしさを知って、福島に対する風評被害でお焚き上げや花火大会を中止したことによって、何が守られて、何が壊されたのか。私が知る限りマスコミは、中止になったと報道するだけで、このままだと差別社会化が進むことの危険性を指摘していない(木材や花火が危険ならば、次は人間とならないのか!)。

 私は、3月11日の体験と、それ以降のこの国の姿をみて、こう感じている。

 自然を完全制覇することはできない。地球を人間のコントロール下におこうとしても、圧倒的なスケール差があり、不可能である。今までつくってきた人工的世界観が不動で主軸であると思い込んでいたが、そうではないようだ。
人間は自然、地球、宇宙と共存しており、人間が造ったものや考え方中心がすべてではないという自覚が大切だ。
 つまり、自分がまだ知らない世界があること、変化しなければならないことがあることを自覚して生きるということだ。そうすると、謙虚になって、感謝できる自分になる。そこから、まずはじめることにより、やがて今までの失敗を起こした過去のパラダイムからシフトしていくことができるのではないか。

 そして、震災時において、「公」のために、避難放送し続けて、津波に飲み込まれた役所の方や、消防、警察官等の方々、また震災後に身の危険を顧みず原子炉に放水してくれた自衛隊や消防隊の方々、救援活動に従事するボランティアの方々の存在.....。この国には、もはや評論家や受益者ではなく、奉仕者、実践者が必要だということ。
 無縁社会、クレーマー社会、格差社会.....マスコミによる造語や心理的波及効果によって生じた歪みは、大震災の悲惨な現実によって、その歪みの存在自体が脆弱になってきている。もう問題ばかり指摘していないで、たとえ、被災地にいけなくても、自分の身の回りから、他者を思いやり、何か働きかけをすることから、社会が変わっていく。

 自己保存に居着き、花火を中止させるより、少しの(天文学的微少?)リスクがあったとしても、福島を応援できる人間になっていきたい。

 アインシュタインが言っていたように、問題が発生した段階と同レベルの立ち位置に留まっていては問題は解決しない。より高い位置に立たなければならないのだ。

 従来の自分の利益拡大や、安全を追求したライフスタイルや、職業意識を超えて、新しい共存社会や、生き方へシフトしていくべきなのだろう。勇気をもって...

  もっといろいろと書きたいけど、日付が変わってしまったので、この辺にしておきます.....

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2011年9月24日 (土)

今日の気づき

 最近は、合気道の稽古を以前と比較すると、まじめにコツコツとやっている気がする。合気道では技は勿論だが、第一に心の状態を落ち着かせなければならない。心が落ち着いた状態であれば、相手の全体像を把握し、必要な間合いをとることが可能となる。  

 最近になってやっと、心の状態が身体を動かすことをわかっていないことがわかった。廻りくどい言い方だが、心が身体を動かすことがわかったということではなく、あくまでも自分が無理解だったことがやっとわかってきたということだ。 

 自分の人生を振り返ると、ブレイクスルーしようとすると、障害や、自己傾向が表面化することがよくある。 

 最近は、合気道を通して、「落ち着き」がテーマとなっており、仕事や日常生活でも意識するようになってきていた。そして、今日もお稽古で特訓して、指導を受けながら、自分のいい加減さに少々滅入ってしまった。

 さて、そこから事件は始まる。今日は、稽古後にタクシーで露天風呂のあるスパに行って、ゆっく温泉に浸かった後、退出時に靴箱の鍵がないことに気づいた。時間制のため、一分でもオーバーすれば延長料金がとられるシステムとなっており、あと数分しかなかったので、焦ってしまった。

 カバンや服を探してもみつからず、フロントから更衣室に逆走して、ロッカーの下の床を除くと、そこに鍵が落っこちていた。ふぅ~、たすかったぁ....ということで難を逃れた。服を脱いだときに50円玉を落っことして拾ったが、そのときに一緒に落ちたのだろう。 

 そして、湯上り後にイタリアンのお店に寄ってから、浅草に戻り、駐輪場にある自転車に乗ろうと鍵を探したが、みつからない。カバンと服の隅々まで調べたが、みつからない。思いあたるとしたら、タクシーの中で小銭を出そうとモゾモゾしていたのだが、そのポケットに自転車の鍵があったはずなのだ。今となってはわからないが、いずれにせよ今日は歩いて帰宅したので、明日の朝に唯一の合鍵をもって自転車の待つ駐輪場にいかねばならぬ。

 夕方から短時間で、鍵紛失が続いてしまった。 

  まぁ、靴箱と自転車の鍵ぐらいでという見方もあるが、落ち着きをテーマにした自分にとっては、けっこう大きな出来事なのだ。まさに落ち着きがない自分の像を現実世界に投影された感じだ。 

 面倒くさいことが嫌で、なんとかなるだろうという自分の気質を維持したままで、ただ闇雲に落ち着こうと呪文を唱えても、それは無理なことで、再考する必要がある。 

 心身統一を目指すのであれば、合気道の稽古だけ頑張っても限界があり、あらゆる日常生活の中で自分を知り、学び、変化していかなければならない。ここ数日、宇城憲治氏の本を数冊再読していて、そう思っていた矢先の出来事だった。稽古だけ、回数を重ねていっても、日常生活での姿勢が確立されていかなければ意味はない。

 以前、読んだ本には光が強くなれば、障害物の闇もはっきりしてくると書いてあった。 

 なんか面白くなってきた感じがする!

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キングオブコントは凄かった

 キングオブコント2011最初から最後まで観てしまった。漫才や、ピン芸だけを3時間観続けると途中飽きがきてしまうが、コントだと色々な状況設定が変化し、飽きることはなかった。 

 最初は8組中、応援していたのはトップリードだ。彼らを5年位前に浅草の演芸場で観てからファンになった。最近、オンエアバトルのチャンピオンになったと知って、そこまでいったかと感傷に浸ってしまった。 しかし、今回は彼らの売り物の若さ、新鮮さが、少し空振りしていたようで少し残念。 

 インバロス、TKOはさすがにベテランで安定した笑いを演じていたが、今回はそれが逆に少々レトロな部類のコントに感じてしまう結果となった。

 モンスターエンジンや、鬼が島、2700、ラブレターズといった、通常のコントパターンを破壊し、不条理な流れを導入したコンビの斬新さが目立った。 

 優勝したのは、ロバートだったが、番組を通して一番印象に残ったのは2700の不可解な笑いだ。司会のまっちゃんがお年寄りの視聴者を無視したとコメントしていたが、まさにその通りだ。 

 2700はお笑いレッドカーペットに数回出ていたと記憶しているが、あの雰囲気とリズムはとても新鮮で面白かった。しかし、この大舞台では、もうちょっと大笑いをとるようなネタを披露すると思いきや、ラップにあわせて、象がキリンのテニスプレーヤーがレシーブするか、スマッシュするかに果物を賭けるという、何だかよくわからないコントであった。 

 しばらく、何度もリフリインする賭けの展開を観ていて、こ、これはお笑いとして成立するのだろうか?、最後のびっくりするような落ちはあるんだろうな...と不安になったが、やはり爆笑する場面はまったくなかった。 

 なんだ!このコントは!金返せ(テレビだけど)!という反応が多いと想像するが(ひょっとしたらTBSにクレームが殺到したかも)、なぜか、心に残り、考えさせられたコントだった。

 昔、笑いという現象について書かれた本を読んだ。そこには笑いとは、優越感や、緊張からの開放などという考察があった。 

 確かにバカで間抜けなキャラクターをみると、優越感にひたったり、夜中に誰かが窓を叩いていると震え上がったら、実は木の枝の仕業とわかったら、ホッとした笑みがこぼれるだろう。  

 たとえば。2700のキリンレシーブの設定を、OLがテニスプレーヤー、若手営業マンが賭ける人というような、よくありがちな設定に変更させたら、多分、まったく面白くないだろう。

 2700のコントは動物を擬人化させ、人間のくだらない振る舞いを演じさせたところに、バカなギャンブラーの象をみて、哀れだなぁ、バカだなぁと優越感をもち、最後に象が当てたかと期待させておいて、ハズレさせるという落ちは緊張から弛緩させる結果になったのかもしれない。

 不条理な笑いであったとしても、そこには昔から引き継がれている笑いのセオリーが流れているのかもしれない。 

 いずれにせよ、お笑いが時代とともに変化して、今までの概念を崩していくのは当たり前ことであり、かつてのドリフタース、コント55号、ひょうきん族たちも、新しい笑いの世界をつくってきた。 

 キングオブコントのことで、長くなってしまったが、芸人たちがいかに成功を夢見て苦労してきたか、ネタづくりとネタ合わせを徹底したか、本番前の緊張は凄まじいだろうなと想像できる。特に今回は、名誉と賞金1000万円がかかっていた。中途半端な姿勢では決勝に残ることはできない。相当な努力と苦悩、ひらめきと練習が不可欠だったはずであり、彼らのブロ意識と姿勢に感銘したのだった。

 おバカ番組から、こんなことを感じて、考え、土曜の朝にこうしてブログを書いている自分もおバカだなぁとため息をつき、終えますぅ。

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2011年9月18日 (日)

祖父・忌野清志郎 さんお墓参り、高尾登山、「世界侵略:ロサンゼルス決戦」、築地....

 今日は3連休の中日で、天気もよいので8時には家を出た。ここんとこ、仕事や合気道の審査稽古などで色々と忙しく、リフレッシュしようというわけだ。

 005まず、初めて義祖父のお墓参りのため、高尾霊園に行った。そして、そこでは偶然にも故忌野清志郎 さんのお墓を発見した。

ファンの方々がよく訪れるようで、綺麗で献花もしてあった。帰り際に50代後半と思われる自転車競技者スタイルのおじさんとすれ違ったら、清志郎 さんのTシャツを着ていた。きっと御参りされたのであろう。

  高尾霊園で早めの昼食をとってから、高尾山に行く。

  凄い人出であり、山頂にいったらちょっとは空くかしらと思ったが、とんでもない。炎天下のなか老若男女に溢れかえった原宿の如く様相であり、とてもとても自然を満喫という雰囲気ではなかった。そこで登山下山しながら思ったのは、やかましい声の多さだ。 

 せっかく日常の人工的生活から離れて、大自然の中に入ったのに、はっきりいえばどうでもいいようなドトールとか、電車内とかでするような話題を大声で話す方々が多いように感じた。それは数年前に、栃木の林の中の露天風呂に入ったとき、たまたま居合わせた男性二人が、せっかくの素晴らしい露天風呂に浸かりながらも、会社の人事や悪口をずっと喋り続けていたときの違和感、不自然さに通じるところがある。

 修験道の霊場であり、貴重な東京の自然宝庫である高尾山の姿を静かに愉しむには、やはり平日でないと駄目かもしれない。 

 ビアマウントは2時開始ということだが、2時半のアナウンスでは満席で、すでに600名が並んでおり、3時間待ちということであった。私らは2時頃に茶屋に入って、東京の街並みが一望できる席に座れて、生ビールとお団子を頼んでマッタリできて助かったぁ(゚ー゚;。

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さてさて、それからまた忙しい。気乗りのしない奥さんを説得して、高尾山から有楽町マリオンまで行って、宇宙人と海兵隊バトルのおバカ映画「世界侵略ロサンゼルス決戦」を鑑賞する。 ネットでは厳しい評価が多いようだが、私的にはけっこう面白かったし、奥さんもそれなりに楽しんだようだ。これは劇場でみた方がよい典型的な映画だろう。ただ、CGはトランスフォーマー観ちゃうと、物足りない感じがした。

 さて、さて。その後せっかく銀座きたから何か食べようということで、ブラブラ歩いていたら築地までいったので、お寿司とジャンボかき揚げを食べて、お腹一杯になって、帰宅したのでした。

 さきほど、消化薬を飲んで、今はコーヒー飲んでPCに向かっています。

 ふぅ...盛りだくさんの一日でしたぁ.....。東京都にある大自然と人工都市を行き来しましたから。

 今日思ったのはレクリエーションの本質は、その語源とおりに再創造、再生することであるということ。

 そのためには、普段の自分を引きずっていては、ダメなのかもしれない。たとえば、自然の中でリフレッシュしようと山に行っても、いつもの自分を意識し、演じ続けているため、話す言葉や態度も普段と変わらないで、ただ自分という自分自身が山道を歩いているだけという結果になる。 自然という外的環境から受ける感動や驚きがなければ、再び創造することから離れていく。自分の感性の扉を開いて、そこから受ける感覚や感情によって、自分自身がどう変化するのか、考えるのか..その体験が自分を創造する。その作業を破棄して、せっかくの自然体験をカラオケボックスの曲目のようにしては、もったいない。おそれおおい。 

 「同化」というのが鍵みたいだ。ハイキングではどれだけ私と自然がひとつであると感じられるか、映画ならばどれだ登場人物たちと同化し、物語に深くのめり込めるか。それが自分の人生や生活を再創造する原動力となるのかもしれない。

 自分がもっている自身のイメージを固持せず、もっと自由に自分の変化を許し、受け入れる姿勢が、レクリエーションの基本なんなんだなぁと、勝手にうなずいています..(*^.^*)

 おやすみなさぁい。

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2011年9月12日 (月)

TAKE YOUR PICK

51dygi6vll__sl500_aa300_初めて「TAKE YOUR PICK」を聴いた。

ラリー・カールトンと松本孝弘(B'z)、日米を代表するトップギタリストが夢の共演!!で、今年グラミー最優秀ポップ・インストゥルメンタル・アルバムを受賞したアルバムだ。

もともとB'zはそれほど好まず、よく聴いたのはアニメ『地獄先生ぬ〜べ〜』のエンディングの「ミエナイチカラ」ぐらいであった。

 しかし、グラミー賞がらみの競演映像を観て興味が沸いてきたために、今夜嫁と鮒忠でおつまみ類を頼み、うな丼とカツどん定食を平らげ、帰宅してマッコリ、ギネスを飲んで、準備が整い? いよいよPCにCDを挿入する。ダイヤトーンの外部スピーカーから流れるこの音楽は、なんともいえず懐かしく、ノリノリで、優しい。

 B'zというと、ぬ〜べ〜(;д;)というイメージだったが、改めて松本さんの才能に感服しました。

 (゚ー゚;明日、健康診断に行く予定でしたが、かなり食べ、飲んでしまったために、金曜日に延期します。

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2011年9月 2日 (金)

厳島神社と身体構造

 合気道での稽古で、自分が胡坐姿になり、立っている相手に前から自分の両肩を押させてても安定して倒れないというのがある。

 

 普通は、立っている相手が体重をのせて押してくるので、簡単にひっくり返ってしまう。私もこの稽古には苦心している。まあ、徐々にで゜はあるが、倒れないようにはなってきている。

 

 昨日のことだけど、プロレスラー志願の105キロの若者(男子)にこの実験をしてもらった。私の身体は倒されず、胡坐姿勢を保持したままであったが、さすがに力が強い相手で、床もビニールだったため、そのままスーッと後方に滑っていった。まずまずである。

 

 反対に彼に胡坐をかいてもらい、前から押す。巨体が相手だから力を入れなきゃだめかなと思いつつ、普通の力で押すと、簡単にひっくり返ってしまう。何度やっても同じである。体重72キロの私よりも33キロも重たい彼がなぜ??

 

 この技は、前傾の角度とか、力を入れる場所とかのフィジカルなテクニックでは通用しない。相手に負けまいとして、気持ちが昂ぶり踏ん張るのではなく、自分の心が静かになって、相手と一体になることが重要ななポイントなのだ。 

 

昨日、私が気づいたのはこういうことだ。 彼の体重と同じ105キロで、同体型の銅製胡坐像があったら、きっと押してもひっくり返ることはないだろう。ではなぜ、私が押して、ひっくり帰るのか? 。 私の入れた力だけでは、巨体がひっくり変えることは難しい。彼が自分で倒れているのだ。 

 

 相手が押してきて、自分の型が後方に引きずられ、何とかしようと上半身に力を入れれば、下半身は逆に不安定となり、バランスを欠いて倒れるはめになる。 

 

 もし、彼が銅製胡坐像の如く、重心が最下部にあり、一部分を押されたとしても、重心が安定いれば、姿勢が崩されることはない。 

 

 では、どうすれば、姿勢が安定し、保持されるのか? それは心の落ち着きが基本である。相手に崩されそうになっても、慌ててそこに意識を居着かせずに、相手にやらせまい、自分をなんとかしようと力まないことである。

 さきほどNHKテレビで海上に建てられた厳島神社が、なぜ満潮や悪天候に耐えられるのかを放映していた。社殿は杭に固定されず、大波がきたときはいかだのように海に浮かぶようになっている。また、7~8ミリのすき間が開いており、このすき間から波を逃がす構造になっているそうだ。

 まさにタイムリーな番組をみた感じだが、厳島神社の外部からの危機管理構造は私たち人間にもあてはまる。外からの脅威に対して、心身を硬直させ固定した状態にすると、破壊されやすい状況に陥る。そのためにも、身体は中心の土台をしっかりさせ、他の部分は柔らかくしておく。、心は自分に突撃してくる外的なパワーをそのまま受けずに、開放されている自分の隙間から外力が流れ出ていくようなイメージをもつ。自分が崩れることはない。

 

 心身に中心をもつ(身体は最下部に重心を、心は静かに落ち着いた状態)ことと、どんなときにも力まず、柔らかさを保つことの大切さがやっとわかってきた。

 言葉にするのはたやすいが、それを自分のものにしていくのは簡単ではないだろう。 

 それにしても、人間のもつ可能性は凄いものだ。

 ......ということで、とりあえずお酒を飲むことにします。(◎´∀`)ノ

 

 

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