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2011年6月

2011年6月26日 (日)

週末メモ

 昨日は、午前中は図書館で借りた小林よしのり氏の「昭和天皇論」を読む。昭和天皇についての様々なエピソードが紹介ざれており、後半の敗戦後に日本全国を巡幸される場面では、不覚にも泣けて仕方がなかった。 

Image 午後は、午前とは対極の映画「キック・アス」を観る。とにかく11歳の少女のガンアクションが凄い。このB級そのものの映画を観ながら、アメリカという国が土着的にヒーロー願望があること、悪は徹底的に叩きのめすことを良しとするとこが、改めてよ~くわかった。

 夜は奥さんと、母と親戚おばさん(84歳)と、浅草のあなご料理店へ行く。あなごの刺身というのを初めて味わうが、歯ざわりがこりこりして良い。味は、脂分ガ薄くなった平目のエンガワっぽい感じであった。この店は、カラスに糞攻撃された昼にランチで入って、あなご丼がおいくて、最後はお茶漬けでしめるのも気に入って、その場で土曜夜に予約を入れたのだった。

 さて、今朝は、中沢新一・河合俊雄編「思想家 河合隼雄」を読む。私はずっと前から、昔話の残酷さや、不条理さが、はたして子どもの情操教育上、良い影響を与えるのだろうかと疑問に思っていたが、私の考え方は非常に表面的で薄っぺらいものかもしれないと反省した。河合先生は昔話が、無意識の世界へ降りていく手段とされている。

人間の心に意識ができて以来、それを磨き上げ、人類の文明は進歩してきた。しかし、構築ざれた意識が、無意識の土壌から切り離されすぎると、それは生命力を失ったものになる。われわれは太陽について、雨について、あまりに多くの知識を得たため、太陽そのもの、雨そのものを体験することができなくなった。

 われわれにとって必要なことは、意識の世界から無意識の世界へと還り、その間に望ましい関係をつくりあげることではないだろうか。さもなければ、白日の太陽にさらされたねずみのように乾き死んでしまうことだろう。ここに、無意識の世界へと降りてゆく手段として、われわれは昔話に頼ろうとしているのである。

 (゚ー゚)午前遅めにamazonから、内田樹先生の新刊「最終講義」が届く。まだ半分しか読んでいないが、いかに先生が神戸女学院大学を愛しているか、教育について真剣に考えているかが伝わってきている。読み始めて数ページでかなり素晴らしい本だと思った。

D113448639 午後からはメキシコ、アメリカ合作「闇の列車、光の旅」を鑑賞。メキシコから国境を越えようとする少女とギャング少年のロードムービー。メキシコの貧しさと、残酷さがリアルであり、日本でこうしてのほほんとしていられることの有り難さと後ろめたさを憶える。 

 決して楽しい映画ではないけれど、こういう映画によって、世界の裏側をみて、自分の立ち位置や、国の立場を客観的、俯瞰的に眺めることが多少でもできるのではないだろうか。

51yb5nmskl__sl500_aa300_「サンキュースモーキング」これもいかにもアメリカらしく、アメリカでなければつくられない映画。      

 タバコPRをする主人公については、あまり感情移入できなかったけど、政府が過保護になることの弊害を訴えるのは、一理ある。喫煙について政府に依存、要請せずに、まず自分自身が責任をを持つべきというのは共感できる。

 

 

 

 

 

 

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2011年6月24日 (金)

ディズニーシー

022

今日は代休のため、奥さんと一緒にディズニーシーへ行く。シーにいくのは2回目で10年位前にいったきりだった。 

 昨夜、合気道の道友たちと痛飲したが、M永さんがGWにいったけど空いていて、乗り物全部乗れたとおっしゃっていたので、半信半疑で午前10時過ぎに会場入りしたが、確かに空いている。

 7月まで、東京近郊に住んでいる人たちは、通常価格よりもかなり安く通常6200円が、4900円になるというホームタウンパスポートというのがあって得した気分だ。

 午前中は、乗り物予約したり、レストラン予約してから、炎天下でヘトヘトになって、ベーグルをつまみに生ビールをグイっと飲む。あーうまい! 。昨夜の稽古後のビールもよかったが、炎天下、平日の昼間、ディズニーという三大要素が揃ったため、格別のビールとなったのだ。 

 アトラクションも割とスムーズに乗れ、センターオブジアースもインデイージョーンズもそれなりに楽しめたが、以前のような躍動的喜びはない。それは加齢による弊害の結果なのであろうか?(;;;´Д`) いくつかのショーも観たが、どれも素晴らしかった

 045_2夕食をビュッフェでたらふく食べて、お酒を飲んだ後、シー最後の仕上げに夜の水上ショーのファンタズミックを鑑賞し、仕掛けの凄さに驚く。強風のため中止の可能性があったが、内容を変更して決行したとのことだった。

 

 千葉の海外近くにある地中海のようなロケーションの中で、繰り広げられる、花火と、レーザー光線と、踊りと、ロボットの競演はたいしたものであった。

 

 さて、ふだんは人はねずみを不潔、気持ち悪いと毛嫌いしているが、なぜ黒と白を基調としたキャラクターになって、いつもきちんとした服装と、不自然で人口的な声色だと、あんなに熱狂的になるのだろうか。

 ドラエモンや、アンパンマンや、変身系がいくら人気があっても、横綱のねずみちゃんに敵わないのは、いろいろな要素があるけど、まず服装が特殊だからだろうな。ミッキーが燕尾服や、宇宙服ではなくて、あごひげを伸ばして、派手な金属装飾して、ストリートファッションでかためていたら、違う印象となるだろうなぁ。 

 ファンタジーは、きれいで、秩序があって、誠実さが不可欠な要素なんだろうなと、そんなことを思いながら、帰宅してからもお酒をのんでいる.......

 

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2011年6月22日 (水)

カラスの糞攻撃に落ち込む

今日の炎天下の東京で、午前中自転車を走らす。すると、カラス2羽が、前方からこちらに低飛行でやってくる。

 なんか嫌な予感がした。カラスが過ぎた直後に、下に眼をやると、スラックスの膝上に黄色っぽい粘着質の糞がついていた。あー、やられったぁぁぁ(;;;´Д`)。

 自転車を止め、ティッシュがないので、とりあえず手元で活用できそうなものはと探したら、ビニール袋しかなかった。仕方なく、それて゛表面のドロドロを拭く((・(ェ)・;))

 そんなことだけで、糞は消えるようなヤワではない。どうしようかと絶望感に浸りつつ、近所の大型スーパー「ライフ」で替えのスラックスを購入する。当然裾上げ済の買うが、最高で股下70cmしかない。正直いって私には短いのだけど、背に腹はかえられない。3割引だったので、助かったぁ。(゚ー゚) 

 それにしても、カラスの奴はなぜ低空飛行して、私に糞攻撃を仕掛けてきたのか。鳥の糞にまつわる習性はわからないが、意図的に糞を仕掛ける?ことがあるんではないだろうか。 

 10年くらい前に、カワサキエリミネーターで千葉の九十九里方面にツーリングしていたとき、港のそばを通ったら、体長が大きめの海鳥が、10メートルくらいの高さから、私めがけて糞攻撃をしかけてきて、ヘルメットシールドに緑色の粘着物と黒褐色の固形物が付着した。 

 道路上には、水道利用できる場所もなく、仕方なくそのまま数十分、バイクを走らせた結果、悲惨なトラウマを私は抱えているのだよ(p_q*)

 思えば、幼少期も善光寺で鳩の糞が頭について大泣きし、それが私の鳥嫌いのルーツだともいわれている。 

 都市生活はすべてをコントロールしようとするため、ところかまわず、排泄をする鳥はルール違反動物なのだ。犬や猫がこれだけ人間のペットとなることによって、種族維持に成功しているのは、排泄コントロールがある程度、可能であり、排泄物処理も容易だからでもある。

 カラスやハトの立場になれば、この地球上でいつ、どこで排泄しようが勝手だろうということになろうが、自然を管理コントロールしている社会では、問題になってしまう。だから、ベランダが汚れたり、カラスにいたずらされることから、カラス撲滅が声高に叫ばれている。 

 私もカラスは好きではないし、周囲からいなくなってほしい。まして、今日のような糞攻撃があると、射殺してやりたいような気分にもなる\(*`∧´)/。

 ただ、都市部にこれだけ不自然に人間が密集して生活している状況を思うと、その歪が自然界にも影響してしまう(残飯が豊富、ごみ出しマナー違反等によるカラス繁殖)のは必然だろうとも思える。 

 都市部を人間だけ(あるいはペットと共に)の空間にしてしまうことは不可能である。完璧にコントロールしようとすれば、完璧な反作用が生じてしまうであろう。 

 暴力的なカラス絶滅作戦は、長期的視点にたつと効果に疑問がある。それよりも、食べ物は残さない。ごみ出しはルールを守ってきちんとする。そういった当たり前のことを行なうことから、解決の門は開かれていくのではないか。

 ※今、テレビニュースでやっている結婚詐欺男の悪さと、カラスの悪さはどちらが重たいのであろうか。結婚詐欺男のような人間が多い地域と、カラスの多い地域はどちらが住みづらい地域だろうか。 

 ※ちなみに汚れたスラックスは、洗面所で手洗いして、クリーニングやさんにもっていきました。

 ※今日のことで何人かに愚痴をいったら、運がついたと口をそろえていう。クリーニングやの兄ちゃんにもいわれたから、あんたが今日は5人目だよと嫌味をいう弱い私です。

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2011年6月20日 (月)

映画メモ

金曜日にツタヤで借りてきたDVDのメモです。

Tpostere8bbbd「ちょんまげぷりん」

 タイムスリップしてきた侍が、母子世帯に居候しながら、パティシエになるというストーリー。最初はパティシエになるということを知らずに、よくありがちな時代相違による異文化交流と、最後は大立回りで終わるのかと思っていたら、あらららであった。 

 この手の映画にしては、ダラダラとだれるシーンがなく、心地良いテンポで話が進んでいく。最初、サムライ言葉や、それらしき振る舞いを無理やり演じているような違和感が多少あったが、途中のバーガーショップで、子どもらがおもちゃで騒いで他の客に迷惑かけているのに、母親たちはくだらないおしゃべりに夢中になっているシーンでは、サムライが「いい加減にしろ」と大声で叱るあたりから、侍の品格が光りだしていく。

 食べる場所にいっても食事せず遊ぶ子ども、注意しない大人、謝られても返事しない大人...現代では当たり前になっている光景に、江戸時代のサムライは納得できないのだ。この映画は、仕事というお役につくことの大事さ、家族の大切さを不思議なシュチュエーションによって訴えてくる。 

 サムライのように真剣に働いて、他者のために闘い、品位を保った人間たちが、この日本という素晴らしい国をつくりあげてきたんだなと想像してしまった。 

 平成24年度から中学校学習指導要領改訂により、武道及びダンスを学習することになる。なぜダンスと武道が必須になったのかはよくわからないが、多分、武道による人間形成を期待しているのだろう。これから体育教師たちは、武道、舞踏研修で大変になってくるだろうし、設備も整備していかなければならない。  

 文部科学省は武道の何を期待して、教育に取り入れようとしているのか。明文化していなくてもサムライという存在を抜きには、武道をイメージすることは不可能であろう。武道を追求するためには師弟関係や自律心が不可欠であり、武道競技メソッドに陥らないことを願うばかりである。

 現在の日本にサムライの遺産は残っているのか? 夕方のニュースをみながら思った。

Photo
「クロッシング」は北朝鮮の脱北者家族を描いた映画。この映画は痛いし、辛いし、哀しい、寂しい....... 。

 北朝鮮の残酷な状況をリアルに描いており、この国の人たちの過酷な状況が伝わってくる。

 私は北朝鮮という国は、行ったことがないし、著名人でも実際に平壌以外の地方に行った人も少ない。私たちは、メディアで編集された情報をもとに、北朝鮮のイメージをつくっている。この映画も脚色されたフィクションであるが、多くの脱北者の証言をもとにつくられているという。

 以前は北朝鮮が日本に攻めてくるような話が多かったが、現在の北朝鮮の国力や政治体制の現状からか、最近はあまり聞かない。まして、高度の科学技術を持っているのに原発問題を抱えている地震国に、手を出す覚悟はないだろう。

O0228032310606109060「悪人」

 勢いづいている韓国映画みたいだなという印象。妻夫木聡と深津絵里がなぜ急にそんなに愛し合うようになったかがよくわからないが、それが男女の愛というものなのだろう。娘を殺された父親役の榎本明がいい味を出していて、多分この人がいたから作品は重厚感を出せたのだと思う。

深津絵里は、ずっと妻夫木を待ち続けるのだろうか。

Unstop480
                                         「アンストッパブル」

 無人の暴走列車を止める二人の男の映画。まあ、観ていてそんなにドキドキはしなかったけど、昔ながらの90分アクション映画で、理屈抜きに楽しむ映画ですな、これは。

 ついつい、暴走列車に飛び乗るシーンを観ると、はたして自分には出来るだろうかと考えてしまうのは、幼児性? 若さへの焦り...(゚ー゚;

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2011年6月18日 (土)

身体で考える

  先週から今週までは色々な委員会が続き、ハードであった。特に一昨日には報告事項がかなりあって、疲れたあ。だからこの土日はゆっくりしたいなぁ。 

  まもなくお昼だけど、午前中に新刊の内田樹・成瀬雅春先生の「身体で考える」を読み終える。対談なので、一気に面白く読んだ。特に、第四章の大震災後を生き抜く「身体の声」の聴き方は、これかの生き方や組織のあり方について語られていて、良い刺激になった。 

  どうも私たちは、自分たちの生命や生活を守るための危機管理について、国やマスコミに全面依存していて、自分の頭と身体で感じ取り、動くことを忘れてしまっていたのかも知れない。

  今回の原発の事故も、当初は東電は想定外の津波だったと、無理やりな言い訳をして責任から逃れようとしていたが、その後、過去の国会で福島原発の安全性への問題指摘があったり、主因は津波でなく地震そのものであったことも判明された。  

  私たちの社会は、この程度の危機管理体制によって構築され、事故の対応もきちんと取れずに、責任所在も曖昧な状態が続いており、被災者の人々の不安を募らせている。その不安は、局地的に被災された人々だけではなく、全国的に放射線量に対する不安として増殖されてきている。

  政府、マスコミが放射線量については心配ないと繰り返してきたが、自治体が独自で放射線測定をはじめたり、地域や個人で放射線測定器を購入しはじめている。それは、もう国に依存してはがりではなく、自分たちで動こうという結果であろう。 

  国やマスコミに依存してばかりでなくて、自分たちから行動することは大切なことだ。しかし、放射線測定の数値をどう評価するかは素人では不可能だし、一度始めた測定をいつまで続けるのか、ずっと測定続けるのかといった課題も生じている。それと、怖いのは放射線測定値が高い値を示すようになったら、水や食料、外出抑制、風評被害による混乱等が生じた場合の、リスクヘッジがきちんとなされるかだ。政府も「まだ安全だから大丈夫ですよ」といっていられる間はいいが、「ちょっと危険かもしれません」と発表するには、相当の覚悟と勇気が必要になる。 

  そして、私が一番気になるのは、国民の政府や電力会社、マスコミへの不信感が拡大・定着して、やがて放射線不安症候群となり、子どもたちが世界に対して希望がもてずに、絶えず不安意識を抱えたまま成長しなければならないというジレンマに陥ることだ。 

 「身体で考える」に戻るが、日常的に不安感を抱え、不安センサーをずっと働かせたままだと、本当の危機がきたとしても鈍感になり、的確に対応ができない。 

  不安センサ-iに拠った思考で今後を想定すれば、放射線が基準値を超えたら、外に出なくなり、食料の安全性も疑われ、食料の供給体制が混乱し、されに付随して生活用品の買い溜めが発生する。外に出ないため、エアコン等の家庭電力需要が増大し、節電に抑止力が生ずる。また、計画的な停電が実行されれば、熱中症等の身体変調が起こり、医療機関は体調不良や、放射線不安の患者が殺到し、混乱する。水・食料の安定供給が遮断され、国民はパニック状態と化し...........(書いていて、次々と不安センサーがこうなったら、ああなったらと警告してくれますので、不安神経症的になってきます)。

  

 余談たが、東京電力に対しては、数年前からどうも好かない会社だなと感じていた。それはなぜかというと、あまりたいしたこととではないのだけど....。数年前から、東京電力は原子力発電のスポットCMをやっていて、自然の中にある原発映像とナレーションが流れるのだが、問題はそのBGMなのだ。私の好きな千住明氏の「summer snow」という哀しくも美しい恋の名曲が、オリジナルではなく、変なオカリナっぽい楽器で編曲されていて、それは原曲の美しさを破壊し、安っぽい能天気な楽曲となって流されていたのだ。(;;;´Д`)

  例えていうならば、ビートルズの名曲「イエスタディ」が、やる気のない中堅スーパーマーケットのBGMとして、やる気のないアレンジで、やる気もなく流されているようなイメージなのだ(わかるかなぁ)。もうひとついうならば、名曲をチンドン屋がオカリナ吹いている感じ(わかるかなぁ(゚ー゚;) 

  東京電力の安っぽく媚びたCMを観るたびに、吐き気を催すような不快感があった。原発事故前まで、CMは流されていたように思うが、テレビを一緒に観ていた奥さんにもCMをみる度に興奮して「なんじゃこのCMはぁ!!」と毒づいていたのだ。それは、小さなCMの件から、京電力があまりにも私たちを適当に誤魔化していればいいんだと馬鹿にしているように感じたからだ。東電の首脳陣はこのCMで何を伝えたいのか、隠そうとしているかを数年間、考えてきた。

  原発の脅威と危険がありながらも、子どもだましの建物デザインとCMで隠蔽しようとする東電の体質には、不快感を覚える(まずいっ、冷静にならなければ.....(*゚ー゚*))

  

 まあ、とにかく、落ち着くこと。自分で判断できることはすること。マイナス情報におどらされないこと。自分だけ助かろうは自分を助けないと認識すること。どんな状況でも明るい希望をみつけること。.....そんなことを自戒をこめて思います。 

 

 

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2011年6月15日 (水)

教会の前夜式

今夜は41歳で亡くなったHさんの前夜式(お通夜)が教会であり、参列する。Hさんとは短い期間だったが一緒に仕事をして、パワフルな方だという印象が強い。

 教会は多くの方々が、Hさんを偲び、祈りをあげ、讃美歌を歌い、献花をした。 

 よく知らない讃美歌をなんとなく周囲にあわせて歌っていたら、歌詞の中に命がけで人の為に生きたというような部分があった。なぜかその部分に体が反応した。

 明日も重要な委員会があり、その下調べをして、帰宅してからも読もうと鞄につめて、教会にも持参した。でも、それは一生懸命に誰かのためにというよりも、自分が失敗しないためうまくやろうという打算が強いものだった。 

 若くして亡くなったHさんのように、自分は一生懸命に生きているるだろうかと教会の椅子にすわりながら、自問する。 

 自分は打算で生きていないか? 打算で仕事をして、人と出会っていないか? 

 式に参列した私の奥さんはお清め?に行ったので、一人で帰宅して資料を読み込もうと思ったけど、ワインを飲んでこうして自問自答している。

 自分は弱い存在だから、虚勢を張って認められようとして、疲れている。もともと弱い存在でもなく、讃美歌のように神からこんなに愛され、支えられている自分なのだ (たとえば生命への脅威もなく、こうして健康で、お酒が難なく飲めている奇跡・・・ちょっと違うか) という原点に立ち返る必要があるのかもしれない。 

 久しぶりに行った教会(昨年の結婚以来)に行ってHさんの姿をみながら、生きているということの神秘さを感じた。喜怒哀楽は地上のもので、あの世へは持っていけない。持っていけるのは純粋な魂だけである。 

 魂として、生きる自覚。それは我執から離れて、透明になってエネルギッシュに生きること。そんなことを今夜想う。

 

 

 

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2011年6月14日 (火)

自分でつくったおばけに怯えている人間

7時まで残業して合気道の稽古後、帰宅してシャワーを浴びて、肉味噌うどんと揚げ茄子をつまみに飲むお酒とサワーは最高!!

 飲みながら、何か気づいたことがあったのだけど、整理できていないため、こうしてキーボードを叩いて自問自答している。 

 ここんとこ、委員会続きで、胃酸過多傾向にもあるのだが、ずっと何か現実の受け止め方が違っているような気がしていたのだ。 

 今日の合気道のお稽古では、自分が無理やりに相手を何とかしようとすると、力んでしま
って動きがぎくしゃくしてしまうが、自分という枠を取り払い、リラックスして攻撃を受けると、勝手に相手が自分から動いていき、それを自然に下に下ろすと転がっていくことを体験した。 

 どうも、世の中を敵と思い、嫌だなぁとか、ふざんけんなよとつぶやきつつ、自分を守ろうとしたり、過度に相手を恐れたりして、疲れてしまうのだ。

 

 自分の対峙する世界は自分が創りあげているものだ。例えば、同じ職場にいながらもそこで持つイメージは人によって千差万別であり、人間関係の好き嫌いも複雑に交差しているはずである。世界がみんなと共通であるならば、嫌な上司はほぼ100%の人がきらっており、人気者の鈴木さんは、ほぼ全員が好いているということになるし、お互いが理解できているから摩擦は生じないはずである。 

 同じように過ごしている時空でも、人によっては苦界であり、人によっては退屈な世界だ。 

 私は、どうも世の中を敵とみる傾向があるようだ。物事はそんなにうまくいく訳がない、なにか失敗してひどい仕打ちを受けるかも...とか、なんか嫌な出来事が現れてきて自分を苦しめるのでは....とか、所詮この世は弱肉強食で、甘いこと言ってては駄目だとか.....。

 そのような冷徹で、自分を苦しめる世界に対して、自分は抵抗しようとか、プロテクトしなくちゃと、斜に構えていたり、ユニークであろうとかしてきたのかも知れない。それが、自分を支えてきたのも事実だろうけど、それが自分を硬直化させてもきたのだ。

 中村天風先生は、人間が自分の想念によって苦悩する現象に対して、「自分で勝手にお化けをつくって、自分で怖がっている」と明快な比喩をされた。

 世界とどのように接していくのかは多種多様の宗教、哲学があるように、はっきり決めることは難しい。でも、答えはそれらの教訓の中に存在しているのか。 

 子どもを可愛いと感じ、育てることや、花や動物を愛でるのも、それらが正しいことだからではない。心が、体が、そう感じるからだ。 

 こうすべきという「あるべき論」は万能ではない。世界はあるべき論の戦いから不幸な歴史をたどってきている。

 実相から離れ、自分で勝手につくった世界観があり、それに対抗して自分を硬直化させていることがわかってきた。ならば、自分という枠からはなれて、力を抜いてこの世界と争わずに対峙することが大切ではないかと、今日のお稽古を通して思った。

  怒りや恐怖は、体を硬直化し、動きを阻害する。喜びや落ち着きは、体をやわらかくし、動きをスムーズにする。だったら、どうするかわかるよねと言われたような夜でした。

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2011年6月12日 (日)

「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」で迷惑客を叱る奥さん!

昨夜は、我が家にクラポンと、奥さんの職場のスタッフ二人(大学卒業して2年目!)が遊びに来た。手料理とお酒を振舞いながら、仕事の話したり、結婚式DVD観たり、合気道の気の体験(酔って不謹慎ながら)など盛りだくさんで、あっという間に12時近くになってしまった。

だから、本日は仕事の勉強しようと思っていたのだけど、午前10時まで寝てしまい、それからダラダラとテレビみたり、ウツラウツラしたりしていて、1時間だけ真面目に資料を読んだ。なんとなくこのまませっかくの休日を終わらせるのはもったいないと思い、午後遅めに奥さんと「X-MEN:ファーストジェネレーション」を観にいく。 T0010184p

 映画館では、座席の周囲にアジア人のグループが座っていた。奥さんの隣の若いアジア女性二人は、予告編が始まってもなんかペラペラしゃべっていて、気になってしまい、本編では静かにしてくれよぉと少々不安がよぎる。しかし、本編が始まってからもシーンの合間に話している。(`Д´) 

 本人たちは小声と思っていても、映画館では耳障りで、物語に集中できなくなってしまう。さすがに注意しようかと迷っていた矢先に、奥さんが「しゃべらないで静かにして!」と注意をしたら、それから喋らなくなった。やがて、物語が終了し、エンドロールが流れ出した時に、彼女らは席を立ったが、奥さんのほうをにらみつけながら歩き、出口でも向きなおしてにらみつけたようであった。 

 あちらにはあちらの言い分があるのかもしれないが、上映中にお喋りをするのは迷惑な行為だ。ひょっとしたら、英語も日本語もわからない友人に通訳していたのかとも想像したが、上映中のお喋りはマナー違反には違いがない。それにしても、迷惑をかける隣の観客に、凛として注意するうちの奥さんは凄いと思った。今後、私も気をつけようと思った(;ω;)。 

 映画の方は、かなり高い評判だったが、X-MENシリーズを全部観ている自分としては第2作目が一番好きだ。しかし、今までのシリーズで登場する車椅子や、ヘルメットのおじいさんたちが、なぜそれぞれの立場で争うようになったかが、よくわかった。

 超能力ものは、年頭から一ヶ月かけて、『HEROES』77話を制覇したので、少し食傷気味になっていたのかもしれない。昨日、録画してあった「おとうと」を観たが、最初思っていたよりも良い作品で、最後は泣いてしまったなあ。

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2011年6月 7日 (火)

不思議な出来事

実は今日、合気道稽古後に汗をかき、焼酎サワーを飲み酔ってきたのたが、これだけはアーカイブしておかなければならないと思い、キーボードを叩く。 

 今日は仕事で委員会に出席して、失言をしてしまい、関係者から色々と嫌味をいわれたりした。ここんとこ、仕事はある程度スムーズだっただけに、ちょっと落ち込み気味であった。飲み会にも誘われたが、これは気の練磨が必要と判断し、合気道の稽古に参加した。 

 帰宅してシャワーを浴びて、ちょっとしたつまみを肴に焼酎を飲みながら、嫁に今日の出来事を話す。嫁も癌末期の友人の話をしてきた。そうするうちに、今まで話題にはしなかったけど、昔かかわっていたちょっと変わった医療機関の話をしたくなり、嫁に○○病院というのがあって...と話をする。すると何と!嫁が仕事で関わっていた病院であり、医師とも親しいのだった。私はその医師たちとは20年近く会っていないが、嫁は数年前から高齢者の在宅医療関係で出会っていたのだ。 まさか○○先生を知っているとは!と、嫁も驚いた様子だった。

 事情があって素晴らしい理念に基づいた医療を展開してきた彼らとは、離れることになった。嫁には誤解される怖れがあったため、敢えて口にしなかった。しかし、なんで今日、話題にしたんだろうか。多分今日の委員会での嫌なことがあって、酔って今までつくってきた殻を破りたくなったのかもしれない。そして、嫁が腹痛のため本日他の医療機関に受診し、紹介された医療センターで胃カメラを飲むということになったらしいが、かつて親交のあった病院には胃カメラ設備もあるらしく、これも何かの縁だからと、嫁に無理やりセンターではなく、その病院に受診しなされと勧める。

 詳しくはかけないが、嫁がその病院と一緒に仕事をしてきたとは驚きである。そして、その驚きは表面意識の上であり、深層意識では妙に納得している感覚があり、それもまた驚きである。

 すっかり、今日の仕事の苦労は消滅して、今はただ奇跡の出会いを実感している。最近は、自分の思考を超えた現実の展開面に驚くことが多い。

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2011年6月 6日 (月)

八日目の蝉等々

 武道家茂呂隆氏の「護身は護心にあり」を週末に読んで、相手をねじ伏せようとすると、相手と拮抗して姿勢が崩れてしまうだけだが、相手と自分がひとつという感覚だと簡単に相手を崩していくような実験がのっていた。

 合気道でも、相手とひとつになる感覚を教えられるが、今日は久々にジム行ったので、ラットマシーンで実験しようと試みた。プレート70kgの最大重量にして、ブレスダウンを行なう。憎きプレートを無理やり力んで、持ち上げようとしても微動だにしない。しかし、プレートが愛しき自分と合体しているというイメージだとも簡単にバーを引き下げ、ブレートが上昇するのだ。

 合気道では、ウェイトトレーニングを推奨していないため、最近は控えているが、こういう身体実験をしてみると、心が体を動かすということが証明される。しかし、いくら高重量をもちあけでも、部分的に身体を鍛えるボディビルとしては効果が期待できないはずです。あしからず。

 この一週間は「キンキーブーツ」「小説家を見つけたら」という佳作映画を観たが、週末に見たnhkドラマ「八日目の蝉」6話には圧倒された。映画でも今ヒットしているらしいが、本当に切なくて、哀しいドラマだ。こうなりそうで、観るのはためらったけどやはりこうなった。こうしてお酒飲んでpc打っているいまでも、薫の可愛さと母と娘の情愛を思い出して、胸がきゅんとしているのだ。

 なんで、人はこんなにも哀しい物語をわざわざ見るんだろう。それは、他人の不幸は蜜の味的な、せこい幼児的な嗜好ではないはずだ。

 この誘拐による親子が、普通の親子だったら、あそこまでの幸福感は味わえなかったのかもしれない。いつか、終わる出会いだという気持ちがあったからこそ、一緒にいられる時間が濃厚で輝いたのではないか。

 薫と京子(偽名)の母娘を通して、人間が出会っていることの大切さと奇跡を私たちは垣間見るのかもしれない。

 不条理なこの世に生きているからこそ、出会える愛のはかなさと強さを、この物語は語っている。たとえ、誘拐した子と接した親子の時間であったとしても.....。 

 私たちは、ふつうに出会っていること、生活できることの有り難さを忘れ、あたかも当然のもののごとく思ってはいないだろうか。失うからこそ、今あることの大切さがわかる。これはフィクションの世界からのメッセージだけではない。多分、震災で被災なさった方々も実感されているのではないかと察する。

 

 それって、生命も限りがあるから、輝き得るということか..........

 

 

 

 

 

 

 

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