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2011年4月

2011年4月30日 (土)

伊勢、熊野からの祈り

GWが昨日から始まったが震災の影響により、旅行者数が減少しているらしい。それは震災にあった方々に対する配慮や、東北以外でも大地震が起こる可能性があるために自粛しているといったことらしい。

 私の部下は、GWに岩手県に救助活動に行くことなった(ちなみに彼は阪神大震災体験者でもある)。私の方はのんびり海外や温泉という気分ではなく、きちんと伊勢神宮にお参りをしたいと身体が反応したため、昨日は嫁とお伊勢参りをした。GWということもあり、外宮、内宮ともかなりの人出である。それにしても若いカップルや、親子連れが目立っている。かつては年寄りの行事であったお伊勢参りも、若年層に拡大されており、時勢を感じた。

 昨年のGWも嫁と二人で結婚したばかりということもあり、伊勢神宮で祈祷していただいたのだが、まさか一年後の日本がこうなっているとはまったく想像していなかった。今年も祈祷していただいたが、自分のことをお願いするよりも、自分たちが日本という国に何ができるか(微力ながら)ということを中心に据えた。

 そうして祈祷の最後に、御札をいただくのだが、神前の2メートルほどある木の置物に脚がツッかえて、動かしてしまった。あへ~と驚きつつ、神様がちゃんと気持ちはわかるけどちゃんと落ち着いていきなさいとおっしゃっていたんだと納得した。

 昨日泊まった鳥羽から半日かけて、今日は熊野までやってきた。3時過ぎに熊野那智大社にお参りし、5時前に熊野速玉大社にもお参りできた。あわただしい、一日ではあったが、おかげさまで゜なんとか無事に海岸沿えの宿につくことができた。そして、食事して、お酒をのみながらこうしてブログを書いている。

 ほろ酔い状態で申し訳ないのだけど、被災地の現場でがんばる人、募金活動等の支援をする人、被災した方々や日本の復興を祈る人...  この国は絶対よくなると確信します。

 明日は高野山の宿坊に泊まります。天気悪そうだけど、己を見つめなおします""

 

 

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2011年4月16日 (土)

有事に臨機応変で対応するということ

 あーせっかく書いたブログを誤って消してしまったぁ(;ω;) 

 母宅に嫁と行って、焼肉食べて帰宅してからもワイン飲みつつ、今日の一日を備忘録として書いていましたが、違うキー押して消えてしまいましたぁ。

 仕方なくやりなおしますが、簡単に言うと、今日の午前からは大前研一氏の「民の見えざる手」と、北野武とミシェル・テマンの「KITANO」、そして炭粉良三氏の「合気流浪」を読みました。ちなみにみんなほぼ同額でありますが、炭粉氏のは厚みがかなり薄く感じます。しかも、内容はまとまっていなくて、結論ははっきりしないのですが、炭粉氏の人柄を醸し出す文章構成と、続出する異質の出会いと発見が、読者が炭粉氏と一緒に合気求道の旅をしているような感覚を味わいます。

 午後3時からはツタヤで借りたクリント・イーストウッド作品の「ハートブレーク リッジ(1986)」を観ました。多分かなり前に観たような気がしますが、なぜ25年前の作品をレンタルしたかというと、内田樹先生が12日のツイッターでこう書かれているからです。

西條さんが被災地で300枚毛布が届いたが、避難所に500人いるので、平等性を配慮して一枚も配らない人の話を書いていました。僕はこれは平等性への配慮ではなく、誤答することへの恐怖だと思います。300枚を500人に配る出来合いの方法はありません。

ということは、何をやっても「正解」を出すことができない。そういう場合に「秀才」たちは回答することそのものを止めて、あたかもそのような問題は存在しなかったかのように繕います。相対的に「よりましな答え」を出すことより、「誤答をしなかった」ことを喜ぶのです。

秀才たちはマニュアル通りにものごとが生起する平時においては有能で有用ですが、限られた資源、限られた情報、限られた時間の中で「相対的にましなソリューション」を計算するという訓練を受けていません。そういう人たちに有事の危機管理を任せるというのは酷です。

有事に適切にふるまうことができる人は、そのような人を育てるプログラムによって育成するものです。そんなものがあるわけないという人は「ハートブレーク リッジ」をご覧ください。臨機応変を教える効果的なシステムというものは存在します。武道も宗教も本来はそのためのものです

 

 早速嫁と観ましたが、なるほど緊急事態に通常の事務手続きマニュアルどおりに行動するというのはかなり危険で、現場サイドで状況を判断して臨機応変に対応することが大切だということが、この事例研究(これ自体がマニュアルっぽい?)でよくわかります。

 酔ったついでに「ハートブレイクリッジ・内田樹」で検索したら、12年前と思われるHPに先生の評論がありました。一部だけのっけます。http://movie.tatsuru.com/html/otoboke.rev.2.html

この映画のメッセージ(というようなものがあるとすれば)、それは「アメリカ社会はどんどん変わって行く。それは誰にも止められない。その変化の中で、ほんとうに大事なものを手放さないためには、臨機応変に、しなやかに生きて行くほかない」というものでありましょう。

 けれども、「ほんとうに大事なもの」が何か分かっている人間しか、たくみに変化することはできません。そうして変化することのできる人間だけが、生き延びることができるのです。(うう。いい教訓だなあ)

 経験的に言って、ほんとうに危険な状況を生き抜いてきた人間には、ある種の共通性があります。それは「ユーモア」の感覚と、「フレキシビリティ」です。(「根性」とか「筋力」とかいうものでは、ほんとうに危機的な状況は乗り切れないのです。)

 私も今回の震災で、危機管理について関わっていますが、全体的な指揮系統の徹底と、個別判断による対応とのバランスの難しさを実感しています。しかし、今回の危機は、社会規範下における人的なものではなく、まさに戦闘状態なのかもしれません。平常時の社会、組織システムや、業務マニュアルで対応しようとすること自体が、組織の崩壊につながっていくのでしょう。

     

 さて、もう少しワイン飲んで、NHKの「熱血おやじバトル」を観ます.....、 

 

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2011年4月 9日 (土)

自粛か、決行か?

 東京の桜は満開だが、今日はこれから雨が降るらしい。今朝は花粉症がひどくなり、早く目がさめてしまった。例年だと咳き込むことは少なかったが、今年は咳もでるし、鼻づまりもコンクリートのような感じだ。調べてみたら、関東の花粉量は例年の10倍程度らしい。昨夜は上野で歓送迎会があって、その後も自宅で呑みなおしてしまい、そま反動がきたのかもしれないと反省....(ノ_-。)

 上野公園の夜桜は照明が少ないながらも、とてもきれいだった。自粛ムードにより例年のビニールシートをひいた宴会は見られなかったが、人出もそれなりにあった。私的には桜並木を薄汚れたシートで占有したり、酒や弁当のごみ、異様に甲高い声がなく、静かに桜たちをみながら、ほのかな幸せを感じられる今年の花見風景が好ましい。

 全国的に、震災被災者を考慮した、イベントや祝い事等の自粛がひろまっている。石原都知事の花見自粛発言から、公園では自粛を促す看板が立てられた。しかし、先日、看板は撤去されたらしい。行き過ぎた自粛による規制が、経済の悪影響を及ぼし、それは復興につながらないという論調もみられるようになっている。また、経済効果だけではなく、祭り等の中止については、神事、仏事であり、復興に向けた祈願に通ずる行事をやめるのは、けしからんという意見もあかっている。イベントについても、このまま開催しないと日本人のこころは暗くなってしまい、それは悪影響となるので、震災地を勇気づける意味でも開催しようという声もある。

 また、自粛という動きは、被災地の悲痛な状況に対する考慮とともに、電力需要の抑制という理由もある。自粛はすべきなのか、すべきではないのか?

 先月11日の地震直後の数日間はテレビは震災特番だけであったが、現在、おバカ番組群が復活して、震災報道がNHKの一部と、各局ニュース番組になっている現状をみると、ちょっとこれでいいのかなぁと感じてしまう。

 ニュースばかりでは暗くなっちゃうから、楽しい番組もみなくちゃというのも理解はできる(私は暗くならないけど)。でも、ここで問わなければならないのは、私たちの復興とは過去の日本に戻り、その生活とシステムを維持してこうとするのかということだ。

 私たちが震災前と震災後を比較して、失ったものはなにか、学んだものはなんだったのか。一ヶ月前とくらべて、今の日本と私はどう変わったのか。

 この国自体を襲っている危機的状況は、地震と津波だけなら自然災害の要素が大きかったが、原発問題は自然だけではなく、人的災害の要素も強い。原子力発電の危険性を知りつつ、コストと効率性から原発推進してきたのは私たちの社会である。もし事故が起こり放射物質が流出した場合は、国家的なダメージとなることを知りながら、脆弱な想定内に基づいた危機管理しかしてこなかったのは、東電と国の責任であり、自分たちの安全を無防備に依存し、委託してきた私たちの責任でもある。

 私たちは、もう一ヶ月前の日本に戻りたくても戻れない。日本が国家的危機に陥っているのは、被災地周辺だけの問題ではない。まだ危険な状態にある原発の放射汚染、経済的沈滞、被災者たちの生活支援、海外諸国の偏見の払拭等々、国家レベル、いや、国民一人ひとりによる問題の解決と新しい国づくりが必要とされているのだ。

 もちろん、そのためには、私たちが元気であることが重要だけど、はっきり言えば、テレビのおバカ番組をみて面白がっている元気レベルでは通用しない。もちろん、その面白さを糧に、何かにチャレンジしたり、誰かを励ましたり、笑わしたりできるのならば、それは良しだ。

 ただ、なんとなく、楽しければOK、経済効果あればOKというようなごまかしムードには注意しなければならない。それは、復興とか、新生ではなく、一ヶ月前の生き方をなぞろうとしているだけだから。

 長くなってきたからそろそろ、まとめなくちゃ。

 被災地のことを本当におもって、花見を自粛するのは自然な流れだと思うし、経済効果だ暗くなっちゃ駄目とブルーシートで桜を占有し、馬鹿騒ぎをしているのは、本当のおバカだ。 しかし、満開の桜の花をみながら、移ろいゆく自然を感じ、生命の躍動感とはかなさを味わうことは、とても素敵なことだ。お酒が入ったって、お喋りをしたってかまわないはずだ。

 この危険な状態の時期だけど、せっかく満開となってくれた桜を見ない手はない。桜の満開の時間は限られている。自粛としてストイックになる必要なく、花見を楽しんでいいんだと思う。ただし、破目を外さずに。

 心静かに桜の花を愛でる気持ちが、日本を復興させるのだと私は思う。その心を私たちはめまぐるしいテレビ番組のような生き方、生活をしてきて、忘れかけていた。

 イベントも、自粛風潮に対する自己防衛として取りやめているのならば、そのような上辺だけで取り繕う団体、企業に満ちた国の未来は弱々しい。イベントをやりたいならやればよい。しかし、おためごかしな被災地支援を隠れ蓑にするのではなく、一ヶ月前とは違った意識で、(それは人の生命のはかなさや、自然への畏敬、連帯への参加等)ブレーし、応援してほしい。そして、収益から義援金をどんどん出してほしい。

 満開の桜の花見、様々なイベントを体験できることの、本当の有り難さを実感し、感謝して、日々の生活を営めたら、世界は日本の底知れぬパワーに感嘆し、放射汚染まみれのイメージは払拭されることでしょう。

 さあ、花見に行こう、スポーツをみよう、音楽もきこう。飲み会も愚痴と噂、馬鹿話一色ではなくて、東電と菅さんの悪口ばかりではなくて、自分たちがどう生きるかを少しだけでも語り合ってみよう。

 そうしたら、凄い国になっていくような気がしてきた......

 長々とすみません

 

 

 

 

 

 

、 

 

 

 

 

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2011年4月 6日 (水)

田畑や海、雨と風が人間を生かしている

今日は就業後に夜の隅田公園を嫁と自転車を走らせながら、満開前の夜桜見物をしてきた。帰宅して、お風呂に入って、夕食をとりながら、またまたお酒をいっぱい飲んでしまった。

 このままだと、このブログは酔っ払いの戯言ということになり、リピーターの方々が愛想を尽かして離れてしまうかもしれないというリスクを背負いつつ、今朝感じたことを書かねばという使命感でキーボードにこうしてむかっている。

 では、今朝に何を感じてしまったのか?思い出すのにちょっと努力してしまったが...。この大震災からは学ぶことや、発見することが多いのだけれど、ちょっと変な発見があった。

 それは、「私たち人間は自然だ」ということ。

 もちろん、大地震や、大津波という自然災害から、自分たちは所詮は自然存在なんだよという結論にいたろうが....。しかし、そういう外的要因ゆえの自然存在という導きではなく、私たちの生命存在そのものが自然だという発見なのである。

 それは、今回の大震災によって、水の汚染や、農産物の汚染が大問題となっているが、なぜそれが問題かといえば、水や、農産物、魚といった自然そのものの産物が、私たち生命体をつくっているからである。

 私たちが私たちとして存在しているのは、哲学的・脳科学的理由はさておき、実体そのものを成り立たせているのは、自然である水源や農地が主たる生命供給源であるからなのだ。私たちの生命維持を支えているのは、スーパーマーケットやコンビ二、マックや居酒屋ではなく、農地や海、雨なのであった。

 渋谷のギャルたちも、新橋の会社員も、学校の生徒も、AKB48やKARAも、菅首相や東電幹部たちも....日常生活の中で歩いたり、話したり、喧嘩したりと生命活動ができるのは、社会システムが機能しているからというよりも、もっと根底の部分では雨や、農作物、海の食物連鎖等の自然摂理が働いているからなのである。
 超高層オフィスビルで偉そうにしている人間も、彼は海とか田んぼによって存在しているということなのだ。

 そんなことはも当たり前でわかりきっている! と思っていたのは誤解で、どうしても社会のシステムによって生活しているという感は拭えなかった。でも、今回の震災は気づかせてくれた。海や大地、風向きや雨、牛たちが私たちの生命活動の主軸を握っていることを........。

 だから、私たちは社会システムに依存し、束縛されてきた関係性を見直し、より根源的な自然や、本質的な人間存在について思いを馳せる、絶好の機会を与えられたのかもしれません。

 そしてはっきりしたのは、システムは人を完全には守りきれないということ。そして、人間が生きるためには、誰かの手助けや、水と食べ物と、歌や笑いが必要不可欠だということを....

 (゚▽゚*) 先ほどのパァっとした酔いが、こうして書いていたら、ジンワリとした心地よい気持ちになってきましたぁ

 いつも飲んでてごめんなさいm(_ _)m 

   

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2011年4月 5日 (火)

賞味期限見直しと不二家問題

 今、23時半を過ぎました。合気道稽古後、午後10時前に帰宅して、シャワー浴びて一気にお酒を飲みました。最初酎ハイでしたが、ニュースステーションを見ながら熱燗にしたら、またまたサワーが飲みたくなってゴクゴク飲んでまもなく日付が変わるところです。

 だから、すみません。酔っ払いのブログになってしまいました。 では、なぜ良い気持ちになっているのに、キーボードをジャカジャカ打たなければならないのか?

それはミナチャンがテレビを観ていいことを言ったので備忘録的に記録しておこうということなのです。

 まず、昨日聞いた津波で生き残ったおばあさんのインタビュー話です。津波の激流にのまれてカーテンにしがみついていたそうですが、もう駄目とあきらめた気持ちでは身体が沈んでいったそうです。しかし、生きているはずの家族のことを思ったら、しっかりとカーテンにしがみ付くことができたそうです。まさに、こころが身体を動かすという実証例です。前向きな気持ちや、希望が身体能力を高めます。

 今日のニュースステーションでは、納豆とかヨーグルト不足の特集やっていて賞味期限を見直すという話がありました。みなちゃんは前の不二家とか吉兆とか騒いでいたのはなんだと指摘されていました。

 不二家は賞味期限が切れた牛乳を使って、マスコミに糾弾され、社会的制裁を受けました。確かに良くないことですが、それで体調を壊したという例は、私は耳にしておりません。社会状況によって、賞味期限も見直していくならば、生命に危険性のない、数日の単位での牛乳の再利用をあそこまで批難したことは何だったのでしょうか。あれは、製品の安全性(といっても賞味レベルだが)を冒涜する企業への制裁でしたが、賞味期限をずらすならば、あの問題は安全レベルの問題ではなく、単にルール違反ということだったのでしょう。

 確かに不二家のやったことは企業として許される行為ではありません。しかし、私たちの社会自体が過敏で神経質な衛生優先であったりしてませんでしょうか。今まで過敏な衛生管理だったはずなのに、かの放射物質が大気中や飲料水に基準値を超えても、人体に影響はないと言い放っている現実をどう受け止めればいいのでしょう。

 基準を超えた放射物質を大丈夫といいつつ、賞味期限を過ぎた牛乳使用を大騒ぎしていた私たちの社会構造はなんだったので゜しょう。

 あーまずい、せっかくの酔いが醒めてきてしまいました。

 こんどの震災で考え直してみることっていっぱいあります。

 今日はこのへんで....

 おやすみなさいませ( ̄ー ̄)

 

 

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2011年4月 3日 (日)

大震災とトゥルーグリット

 昨日は久しぶりに映画館に行った。震災による物心的影響と、自宅で録画しておいた海外ドラマシリーズが溜まったこともあり、「太平洋の奇跡」以降映画館には行っていない。7801a65fcc5edbd2707a8550757cb45b 観た映画はコーエン兄弟のつくった「トゥルー・グリット」だ。ジョン・ウェインの「勇気ある追跡」をリメイクした西部劇である。父親を殺された少女がその復讐のために、保安官を雇って犯人を追跡するのだが、少女役がとてもはまっているし、酔いどれ保安官のジェフ・ブリッジスがとにかく良い味を出している。

 この西部劇の世界は、南北戦争直後であり、まだ開拓精神に溢れて欲望と希望が渦巻いているアメリカの時代だ。暴力的な銃社会でありつつ、法廷での論理的な論争があったり、混沌したエネルギーに満ちている時代である。この映画は昔ながらの勧善懲悪の西部劇なのだが、ついつい最近の捻りに捻ったシナリオの洗礼を受けているせいか、シンプルな物語の進行が懐かしい感じがした。最後は単なるリメイクではなく、コーエン兄弟らしい終結となっていく。

 開拓精神、あきらめず信念を貫く、生命がけで誰かを守る.....。この映画がオリジナルから長い年月を経てリメイクされ、アカデミー賞にもノミネートされたのは、そのコンセプトが長い時代を経ても色あせず、私たちの心に響いてくるからだろう。

 映画を観た後、食事して、買い物をして、帰宅してから、海外ドラマ「ダメージ」を4回分観てから寝た。昨日は珍しく、震災情報に殆ど触れない一日で、不思議な感覚だった。

 今日のニュースでは、地震発生当日、現場の状況を確認するために4号機タービン建屋の地下に向かった東電社員2人の死亡が確認されたと伝えていた。

 現在も多くの人間が、危険な放射線の現場で復旧に向けて闘い続けている。

 現代人は、自分の肉体を酷使しないで済ませることのできるように機械化、システム化を強力に推し進め、その結果、自らが危険を冒すことのない傍観者的な立場を手に入れた。

 傍観者的な立場は、責任を回避し、被害者的な立場にもつながり、一般常識では通用しないクレーマーを生んだり、国や地域社会についても自己責任や義務を回避し、フリーライダーや評論家的立場に立つ人間を増やした。

 この震災について、東電や政府は当然責任を負わなければならない。そして、産業経済界やマスコミもその責任の一翼がある。では、連日の原発情報に混迷し、被災した方々の悲惨な現状をニュースでみている自分には責任はないのだろうか?と自問してみる。すると、被害者サイドにいるはずの自分が、電力供給を福島をはじめとする地方に押し付けて東京で都会生活を営んでいる姿がみえてくる。20年ほどまえには原子力発電は危険であり縮小すべきと考えていた自分が、:最近では無自覚に原発問題から眼をそむけ、忘れている自分の姿がみえてきた。そうなのだ、社会の構成員である私もこの危機的状況を背負う必要がある。  

 ある意味、平和だったはずの時代は終わってしまった。傍観者や被害者でいられたのは、天地が安定し、政治社会システムが健全であり、経済的基盤がしっかりしていたからであり、それ故他者に、自分の生命や生活を依存することが許されたのである。

 これから私たちは、この惨状をきちんと受けとめ、冷静にそして熱く対応していかなければならない。他者に依存し、責任を押し付けるだけではなく、自分自身のリソース(身体や、知識、経験、職業、人間関係等々)を使いながら生き抜き、また、誰かと連携しながらこの国を建て直す必要がある。

 トゥルー・グリット(真の勇者)は、原発現場の極限状況の中で作業している人たちだけではない。私たち日本人が自分の役割を果たしながら、力を合わせて問題に立ち向かっていく過程のなかで、トゥルー・グリットと世界から称されるようになるのだ。

 仕事を通してできる人は仕事で、家庭においてできる人は家庭で、子どもたちは子どもたちのできる範囲で、強制的な無理矢理ではなく、自然なかたちで日本人が前向きな心で危機的状況を乗り越えることができますように。

 

 

 

 

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