« 元旦朝の不思議な雲 | トップページ | ハジャール再び »

2011年1月 3日 (月)

要塞化する家族とビッグダデイ

 正月休みも今日で最後で、これから親戚が集まる母宅にいくところ。正月休みが結構充実していたのは、新しいテレビで自動録画できるのか嬉しくて、バンバン番組予約した。なかでも海外SFドラマ「HEROES」にはまってしまった。今回はシリーズ2の連続放映だったが、いくつものシリーズがあり、これはまずい。TSUTAYAに行くはめになりそうだ。

 今、嫁は昨日放映の「ビッグダディ」を観ながら、林檎ジャムをつくっている。ビッグダディが9時間番組とは凄いものだが、演出面があったとしても、家族の素晴らしさを伝える国民的番組として不動の位置となってきているようだ。多くの視聴者はビッグダディを娯楽として愉しむだけではなく、この家族を見て、日本の家庭はこうでなくてはならぬ、父親はよき家長となるべきであると頷き、現在の日本の家族を憂いているのではないか。

 しかし、もし、ビッグダディが、東京都墨田区居住のサラリーマンだったら、そして子どもたちが東京の学校に通っていて、母親がジャスコでパートをしていたら...。もちろん、大家族だからそれなりのドラマ性はあるだろうが、家族で全員起立して父親の基本方針演説を聞くという場面は現実には考えにくい。まして、夫婦と子どもの4人家族であったらどうだろう。

 ビッグダデイの波乱万丈さは、大家族、奄美大島居住、貧乏、自営業(今は雇用されているが)、夫婦間の行き違い、子どもたちが多くが低年齢などの要素が合わさり、壮大な家族エンターテインメントをつくりあげている。また、ビッグダデイの家庭は、親戚がいる故郷を脱出して、奄美大島へと移動しており、核家族である。核家族とはひと組の夫婦とその未婚の子供からなる家族を意味する。親戚一同からの殆ど援助もなく、核家族が貧乏生活をどう生き抜くかが、この番組の基調にある。

 奄美大島では、台風などの災害があるとライフラインが危機的状態になり、地域の連帯が不可欠であり、孤立化した家庭は生きていけない。ビッグダデイという番組も、林下一家だけの奮闘ではなく、奄美大島の地域との共同が大切なファクターとなってもいる。

 生活するためには、誰かとの共生が必要であり、それが家族や親戚でも、或い地域でも、友人でもいい。仕事や通学のための基地としての家庭ではなく、一緒に生きるためには家族や誰かの存在が大切だと、この番組を見ていて思った。

 昨日、義父母宅に新年の挨拶にいったときに、マンションの話をした。セキュリティー完備のマンションが増えているが、それは外敵を想定した欧米的なリスクセキュリティーを模倣している。家庭外の敵から身を守る要塞に暮らすことは、犯罪多発地帯には必要なことだろう。しかし、家庭内虐待や孤独死が問題化しているが、外から遮断されているから発生する問題が多発してきており、また家庭内における問題が発生した場合には、外部の他者による接触が必要となる場合がある。

 ネットワークや、コミュニティの大切さが謳われるようになってきているが、要塞化した街でどのようにしていけばいいのだろうか。想像してほしい。もし、毎日のようにポストに入れられている広告のセキュリティ完備のマンションだけで構成される町があったらどうなるだろう。町並みは要塞化したビルが漠然と建っており、その階下にはコンビニとチェーンストアが並んでいる。そこに、住みたいだろうか。そこではどんな家庭生活が営まれるのだろう。

 はっきり言えば、一軒家や、商店、神社や公園、公共施設といった町の構成要素の上にのっかったカタチで最新型マンションは建てられ、その地域や町の良さを売り物にしている。

 もう、昔の木と紙の家に戻すことは不可能だけど、新しい家庭、家族を自然発生的に委ねるのではなく、主体的につくっていかなければならない地点に立っているのだと思う。

 かくいう自分も賃貸マンションの6階に住んでおり、眺めがよしよしと毎日のようにお酒を飲んでいるのだけど、将来は何処で、どんな家に住もうかと考えなきゃ。

 今年の抱負を書こうとしていたら、ビッグダデイやっていたので、家族のはなしになっちゃった。

 

 

 

 

 

|

« 元旦朝の不思議な雲 | トップページ | ハジャール再び »

映画・テレビ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/531400/50478623

この記事へのトラックバック一覧です: 要塞化する家族とビッグダデイ:

« 元旦朝の不思議な雲 | トップページ | ハジャール再び »