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2010年10月17日 (日)

塩野七生の「日本人へ」を読んで松本人志を想う

 今日は合気道の稽古で、複数人が掴みかかってくるのを投げ続けるという特別講習に参加したが、いやー反省点多し。特に相手を力で投げ捨てようとしてしまい、受けの女性にはご迷惑をおかけした。もっと、力まず、落ち着いて投げられるように稽古しなきゃ。

 夕方に帰宅してお風呂に浸かりながら、塩野七生の「日本人へ リーダー編」を読む。この本は入浴用ではないなと(東海林さだおか、斎藤孝あたりがよかったかな)後悔しつつ、飛ばし読みをしていくと、「プロとアマの違いについて」というタイトルが目に入った。

 まさにこれは昨日のプロフェショナルの松本人志に書いたプロとは何かとつながる事項である。塩野氏はプロとアマの違いを絶対音階の有無で判断できるのではないかと書いている。

しかし、この絶対音階はいったんもてば維持できるという簡単なものではなく、脳や筋肉と同じようにしかも、常日頃の注意と判断があってこそ維持が可能になるそうだ。しかも、一旦鈍化してしまうと回復は実に困難という性質まで合わせ持つ。 絶対音階とはそれを磨くことと反省を怠らないことの二つを常に行なっていない限り、習得も維持もできないものなのかもしれない。

 松本人志も単にセンスの良さだけで、何の努力もしなければ、浮き沈みの激しい世界で埋没していっただろう。小島よしおや、ゲッツ、ムーディーといった一発屋の方々は、瞬間的な笑いで人気を得たが、それはついていたということだろう。

 絶対音階を大阪の貧しい生家と地域の中で育んだ松本は、笑いの可能性の探求を怠らないでいる。たけしも足立区の家族や浅草が原点としつつ、あらゆるジャンルに挑戦しながら自分の世界を掘り下げていっているし、爆笑問題も当初の知的なお笑いのスタンスから、バラエティーに侵出しつつ、多様なアカディズムとの接触を果たしながら、進化・深化していっている。長期的な成功をおさめている芸人たちの努力を知らずに、私たちはブラウン管をボーっと眺めているだけかもしれない。

51fotaodbhl__sl160_ さて、飲みながら黒澤明の「蜘蛛巣城」を観る。こんなに面白い映画が50年以上前に作られたとはびっくり。白黒だし、音声聞き取れないし、CGないけど、こんなにも幽玄でドキドキしてしまうとは脱帽だ。

、クライマクスで、三船敏郎演じる主人公が特撮ではなく、実際に矢を射掛けられるシーンが圧巻なのだが、ウィキペディアに面白いエピソードがのっている。

 撮影に関するエピソード

三船演ずる武時が次々と矢を射かけられるラストシーンは、特撮ではなく、実際に三十三間堂の通し矢の名手が三船めがけて矢を射た。実際撮影が終了した後、三船は黒澤に「俺を殺す気か!?」と怒鳴ったとのこと。その後も、自宅で酒を飲んでいるとそのシーンのことを思い出し、あまりにも危険な撮影をさせた黒澤に、だんだんと腹が立ってきたようで、酒に酔った勢いで散弾銃を持って黒澤の自宅に押しかけ、自宅前で「こら〜!出て来い!」と叫んだという。石坂浩二の話によると、このエピソードは東宝で伝説として語り継がれてい]

そんな三船は頻繁に「黒澤の野郎、あいつバズーカ砲でぶっ殺してやる!」ともらしていたという。

 黒澤映画も絶対音感的な魅力があるから、50年後でも面白いし、その原作のシェークスピアの「マクベス」も現代に通ずる音階をもっている普遍的財産なのだ。

 なんか古典を読みたくなってきました。

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