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2009年10月

2009年10月18日 (日)

「チェンジリング」「歓喜の歌」「マックス・ペイン」

引越しした関係もあって、レンタルビデオからは遠ざかって、ひたすら映画館に通っていたが、「歓喜の歌」をみる必要性があり?、二年ぶりにレンタルビデオ屋に行き、一気に三本借りて一日で観た。

「チェンジリング」1006227_01ロードショーで予告編を何回も観たが、どうも暗い雰囲気と、アンジェリーナ・ジョリーがあまり好きではなかったので、遠慮していたが、なかなか評判が良いので、借りてしまった。

結果は、凄いの一言!。行方不明の息子が戻ってきたが、別人だったことから、警察の圧力、精神病院への強制入院、裁判等々、まったく飽きさせないスリリングな展開はアッバレだ。

 アンジェリーナ・ジョリーの迫真の演技に喝采!しかし、80年前とはいえ、腐敗した警察と行政の癒着は腹立たしい。これは実話であり、脚本家は1年間かけて調べ、仕上げた作品らしい。

 アンジェリーナ・ジョリーが、窮地に陥っても、権力を敵にしても手を差し伸べる人たちがいる。私たちの日常生活ではなかなか気づくことのできない、愛情と、勇気と友情の大切さを教えてくれる映画だ。

 「歓喜の歌」D112505261 これは、私の大好きな立川志の輔の落語を映画化したもの。市民会館のダブルブッキングの一騒動のはなし。

市民会館主任の小林薫のなんともいえない、無責任でやる気のないお調子者の演技がいい。

「チェンジリング」を観た後に、鑑賞したが、日本人に生まれたことを感謝してしまった。

「マックス150491・ペイン」これは評判いいと思って借りたら、実は結構不評で、ゲームソフトを映画化した作品。全体に暗い映画で、変なCGも出てきて、展開は予想がつくことからも、評判は悪かろうと納得したが、私はそれなりに楽しんだ。

ただ、やはりこういうドンパチ映画は爽快感がほしいな。第一作目の「ダイハード」のようなインパクトのあるドンパチ映画がてでこないかなぁ。

 映画を3本観たら、あっというまに1日が終わってしまったけど、実は少しだけ、本も読んだ。矢沢永吉のインタピューが載っていて、10年位前のオーストラリアでビル経営を任せていた部下からの詐欺横領事件で30億円の負債を負ったとき、一週間落ち込んで酒飲んで、矢沢は終わりだと真っ暗闇の中にいたらしい。でもふと気がついた。これは映画だと思えばいい。人間に生まれ変わりがあれば、このたびは「生活保護受けて、苦労して広島から夜汽車に乗って上京し、やがて世紀のロックンローラーになる役さ」って悪くない。「でも、途中でオーストラリア事件とか、いろいろ苦しいことも起きるけど、まう人生楽しんでこいや」って。

 矢沢だけが人生の主役ではない。みんな誰しもが人生の主役だ。今朝聴いた柳家小三治師匠の「駐車場物語」のホームレスの長谷川さんも、人生の映画の主役なのだ。

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2009年10月12日 (月)

一歩、歩けば脳は育つ!

今日は体育の日で三連休の最終日だ。昨日まで一泊2日で箱根にて合気道の合宿に参加した。家族からは、学生みたいだと言われひやかされる。合宿での稽古時間は東京では一回2時間でやる稽古の3日間分くらいだが、集中してやるのと、初めて会う人が多く、良い刺激になった。また、あえて箱根高原という磁場の良さも影響していることだろう。

 今日は母と会い、親戚の法要場所を決めるため、浅草の候補店舗に入り、昼食をとるが、その帰りにスーバーにより、買い物を付き合う。母にとってはこの私もまだ子どもなので、好きな酒を買えと言う。自分で買いますからと断ると、強い口調で「買いなさい!」と指示される。戸惑いつつ、レジの前に陳列されていたスパークリングワイン980円を買っていただく。今夜は大量の美味しい餃子をつまみにそれを頂いた。

 今日、読んだ「人生を変える知恵-比叡山のやさしい人間学(出版文化社)」の中では、養老孟司先生の「一歩、歩けば脳は育つ!」が面白かった(たった4ページだけど)。

 今の世の中はインターネット、テレビなどから情報が入ってきて、「自分は変わらない」と思っている人が大勢いる。養老氏は大学を辞めてから見た太陽が10倍くらい明るく感じた。それは自分が変われば世界が変わるという体験。つまり変わるというのは意識のはたらき。

 意識を変えるには、ある感覚が入ってくると計算して出すという特徴をうまく使うことが大事。この場合、アウトブットは身体。入って出て入って出てを繰り返していく中で脳は成長して、方法や式をつくっていく。それが学習。このように脳・意識の成長には身体を動かすことが密接に関係しているが、今の人たちは脳というのは、外部的な情報を入れるもので、そこは変わらないと思っている傾向にある。

 こんな時代だからこそ、体育が見直されるべきで、脳が外に出せるものは身体の動き、歩くこと、おしゃべりも筋肉の動き、身体を動かしたら世界が変わる。一歩動いたら脳が育つ。

 身体を動かしたら脳に色々な情報が入ってくるが、現代は入っていく一方で出て行かない。出て行かないと身につかない。

 時間がたっても変わらないものが情報。意識に全部任せておくと世界が止まってしまう。身近なもので本当に止まった世界がインターネットの世界。何にも起こらない世界に頭を突っ込んでいるのを今は勉強と呼んでいる。自分が変わらない学習は学習じゃない。それはただ単に知識が増えただけ。

 泳ぎを憶えた子どもは海を怖がらなくなる。泳げる前の子どもとは違う存在。きちんと内面も変化している。学習は本来こういうことではないか。

 その辺を昔の人はうまく考えていて、自分自身をひとつの作品・芸術ととらえてそれを磨き上げる”修行”というものがある。

 最近は何でも「何のため?」ですべてを推し量るようになってきた。意識していても進まないことを無意識の部分の身体に染み込ませて、何か進んでいく。言葉もそう、身につくから喋れる。現代人は身体を忘れてしまっている。意識中心に生きると物事すべて同じになる。だからお金!中心になってしまう。

 ”考える”というのはそもそも間違いで、”身体を使う”というのが本来の姿、それ自体が生きているということだ。

 

 簡略化しつつも、かなり引用させていただいたが今の人たちは(勿論私も含まれている)、人間の意識が創り上げた世界(政治経済や就業形態、酒場での態度、休暇の過ごし方、出生・死亡時の取り扱い、交通システム、法律、マスメディア、医療健康等々等々....)を絶対視、固定化して生きている。

 鬱が多い、自殺者が多いのも、この世界が固まったと思い込んでいることが引き金になっているのだと思う。

 もしものハナシとして、東京ディズニーランドで生まれ、その園内だけで成長し、人生を過ごしている人がいたとしたら、その人の意識はどうなってしまうのだろう。逆に民族紛争の中で生育した人の、世界に対する意識はどうなっているのだろう。 もしも...突然タイムスリップして戦国時代に移動したら、現代とのかなり強烈なシステムギャップをどう埋めて生きていけばいいのだろう。

 ワタシタチガ当たり前のように生きているこの世界は、一定のルールのもとにつくられている。それは人間が生きていくうえでは必要不可欠なシステムだ。ただ、人間も、社会もあくまでも過程であり、未知の世界が拡がって存在していることに対する謙虚さを失ってはならないのだと思う。

 いい歳して、武道に入門し、自分の未熟さを痛感している自分にとっては、養老氏のコメントが励ましのように聴こえてくる。

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2009年10月 1日 (木)

江原啓之氏のスピリチュアルメッセージ

 ここんとこ仕事がたて込んでいて、残業して飲むパターンができている(そうでなくても、毎日のようにずっと飲んでいるのだが...)。今日は仕事からあがって、鮒忠でビールと酎ハイを飲みながら、サンマ刺やうな丼を頂く。サンマが肉厚で美味しかったが、鰻は土用丑の日に食べたときの方が気分的にかもしれないが゜、おいしかった気がする。

 帰宅して蕎麦焼酎「雲海」をロックで飲みながら、我が蔵書の中から適当な読み物を探す。気分的に疲れているときは、スピリチュアル系がいいということで、五年前に購入した江原氏の「スピリチュアルメッセージⅢ」を読む。この本は、彼の指導霊である昌清霊の霊言集だ。江原氏の本は数冊読んだが、内容はいいのだが、どこか女性向けのへんな優しさがはなについたりしたが、この本は凄い。あの世からの骨太のメッセージだ。

 40分くらいで再読し終えたが、こういう本は読む度に新たな発見が多い。そのときの自分の状態によって、響いてくる言葉や、気付きが違ってくる。今夜は、いろいろ響いた言葉があったが、備忘録として書いておこうっと!

 この世でたましいをより輝かせるためにはどのように生きればいいのですか。

「経験は学びなのじゃ。やりたいだけやればよい。そこから何に感動したか、たましいが何を感じたかか。その経験こそが宝じゃ。.......学ばずしてただうごめいておるよりも、経験を果たすべく、やりたいだけやることじゃ。それがあとで喜びとならずとも、たましいの学びにはなるゆえ、やればよい。現世はいかに限りあるときか。であるならば、恐れて生きるよりも、とことんやりたいようにやればよいのじゃ」

 大胆に生きたい気持ちがある一方、そのぶん傷つくことを恐れて萎縮してしまう自分もいます。

「ぬしらはやすりを使って何かを磨いたことがあるか。磨くということは傷がつくのじゃ。細かな傷が集まって、磨かれるのじゃ。時には大きな傷もあろう。しかし傷が、磨くということぞ、傷なくして磨かれることはないのじゃ。さまざまなその傷の一片が病であったり、金であったり........。がしかし、病も金も、しょせん物質にすぎぬ。大いに傷つき、磨かれるべきじゃ。」

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