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2009年9月

2009年9月29日 (火)

「ビッグダデイ」に想う

 7時まで仕事してから、息抜きを兼ねて初めて行った近所のダイニングバーで、今日はあの「ビッグダディ」を3時間スペシャルでやっていることに気付いた。、一気にお腹を満たして、帰宅してからビッグダディ一家の波乱万丈の生活を見守る。一人でテレビを見ながら、うなずいたり、、笑ったりしている自分が可笑しい。

 あー、父ちゃんが名古屋に出稼ぎに行って、あの一家は大丈夫なのか?父ちゃんは名古屋でちゃんと仕事できんのか?等々の心配が浮かんできて、落ち着かなくなる。

 放映中にビッグダデイの今までの放送したものをネット配信するというテロップが流れたので、インターネット空間に入り込む。そして、案の定、その空間に留まる内に、あらゆる情報が舞い込んで゛きた。なんと!とうちゃんは、5年前の離婚時の心境を2ちゃんねるで私小説として書き込んでおり、その文章がアップされていた。

 ビッグダデイとインターネット、2ちゃんねる自体が想像つかない関係だが、真偽はわからないが、これが事実だとすれば、とうちゃんは骨太キャラだけど、けっこうオタクっぽいとこもあったんだね。

 でも、それが真実だとしても、私は驚かないし、失望もしない。「ビッグダデイ」自体が、番組の正直で簡素な家庭生活イメージとは違い、正常な家庭とはいえないからだ。

 本当にシンプルで自然に生きている家庭ならば、どこに、自分の夫婦間の闇も含めた家庭生活を全国ネットで放映させることがあろうか。もし、ビッグダデイが、現実的にイメージそのものの親父ならば、家の中に常時カメラクルー数人を招きいれ、一家の団欒を記録させるような行為は許さないであろう。

 また、貧乏で大変な生活が放映されているが、まったくの無報酬でテレビ局が数年にわたって、スペシャル番組を放映するとは、まず考えられない。なんらかのかたちで報酬があると思うのが常識だろう。

 そしてスペシャル番組として、放映するためには、平穏無事な生活を3時間も流すことは考えられず、何か事件やアクシデントを起こさなければ、番組としては成立しない。

 まさに、この番組は実生活をそのままテレビ放映している映画「トゥルーマンショー」が大河ドラマ仕掛けになっているようにも思える。

 さて、それでも私は「ビッグダディ」が好きだ。虚構を割り切って愉しめというようなサブカルチャーチックな開き直りではない。あの家族たちにとっては、テレビクルーたちが入り込み、自分たちの生活を演出していくことは、虚構ではなく、現実なのではないか。少なくとも、あの小さな子どもたちは、撮影されている感覚は皆無で、カメラクルーたちがいる居間が自然な姿なのだろう。だから、演出された映像の中でも、私は子どもたちの純粋さや可能性に心が惹かれ、感動する。

 ひょっとたしら私たちも、カメラクルーはいないけれど、自分でつくった夫像や妻像、親としての立ち振る舞い、子どもとしてのはにかんだ姿を演じている存在なのかもしれない。どうせ演じるならばむしろ、自分の生きている姿を全国ネットで放映してくれるビッグダディは、とてもとても気持ちの良い人生を過ごされていることだろう。今回のクライマックスの出稼ぎも本来の孤独な出稼ぎではないのだ。彼の孤独の姿が全国放映され、それに視聴者から共感を呼び、離れて暮らす家族からの愛情が上昇することはわかりきっている。そんなやつを孤独で可哀相なやつとはいわない。

 もし、ビッグダディが、テレビ放映される存在でなかったら、単なる変わった大家族というだけになった可能性もある。私の高校時代の親友Mは、若くして子ども5人孫一人と夫婦で生活していて、かなりエキサイティングで仲良し家族だが、彼の家庭にテレビカメラが入ることは想像できない。仮にビートたけしの育った足立区の北野家にテレビ取材が入ったとしても、とても放映できるものは撮れなかったでしょう。

 いろいろと長い話になってしまったけど、「ビッグダディ」は家族みんながお互いのため一生懸命に生きること、夢を追っていきることの爽快さを伝えてくれる素晴らしいエンターティンメントだ。仮にそれが演出であっても構わない。映画やドラマが人生を変えるきっかけになることは珍しくない。私たちは、きっとドラマにリアリティーを加えたものが欲しいのかもしれない。ビッグダディは虚構の中に生きているだけではなく、映像にならない遥かに多くの日常生活を一生懸命に生きていることは間違いないだろう。そんな彼と愛すべき家族たちを応援したいと思った。

 

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2009年9月24日 (木)

五右衛門ロック!

 09_032_2           今日は、毎週愉しみにしていた「任侠ヘルパー」のあった木曜日だったんだなと感傷に浸りつつブログを書く。9月の五連休は、今日あった大事な会議の準備のために消えた。...といいつつも連休初日はレンタカーの軽自動車で犬吠崎京成ホテルで荒海を眺めながらの露天プロを愉しんだ。ただし、それからは書類とのにらめっこだ。

 

Gekicne_1024_768 クソッ!”華の五連休なのに初日だけ遊びとはなさけねぇ。ここはひとつゲキシネの「五右衛門ロック」を堪能しなくちゃ!というわけで、銀座東映に連休4日目に向かう。グリルスイスで元巨人軍の千葉茂選手考案?のカツカレーを食べてから、ケーキサロンでショートケーキを頂いた満腹で映画館に向かう。 6時15分の回の観客は20人もいなかったので゜はないかという程空いていた。ちなみにゲキシネとは演劇舞台そのものを映  画にするという新しい映像手法です。歌舞伎なんかもやってますね。

 3時間の上映時間で途中15分休憩あり、ということで料金も割引制度なしで2500円とられる。しかし、映画では必ず間延びするシーンがあるが、これは生の演劇の記録であり、余分なシーンは取り除かれ、観客との真剣勝負で退屈するシーンはまったくないまま、芝居に惹きこまれてしまう。

 キャストも豪華だが、特に北大路欣也の圧倒的な存在感には、参りました。    

 とにかくメチャクチャな演劇なのだが、役者たちの生命の躍動感がモロに伝わってきた。自分も役者になればよかったと思った(泣)。

 今まで、演劇よりも映画の方にしか興味がなかったが、ごまかしのきかない演劇の圧倒的なパワーを見せつけられた感がする。映画のCGに一喜一憂していた自分が情けない(泣)

 さて、自分で何を言っているのかわからなくなってきたが、とりあえず今日の会議が何とか無事に終わったのは、「五右衛門ロック」の影響であろう(汗)。昨日はお酒を控えた為、合気道のお稽古後に一気にのんで、酔ってている私をお許しくだされ。

 昨日、お世話になってきた叔父様が亡くなった。色々と人生の荒波を乗り越えてきた人だった。人間は必ず死ぬ。だからこそ、今ある生命を最大限に生き抜くんだちということを「五右衛門ロツク」は教えてくれた。

 あー役者になりたい........

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2009年9月17日 (木)

任侠ヘルパー最終回

 この私が珍しく、はまって毎週観ていた「任侠ヘルパー」が終了した。

 だいたい、木曜日は合気道のお稽古の後に、急いで帰宅して、シャワーを浴びて、ビールとサワーを飲みながら観るのが至福の時間だった。

 内容はまさにめちゃくちゃなのだけど、なぜか、極道たちの人間味や、介護職員たちの一途さ、女社長の悲哀など、結構きちゃった感じがした。

 このドラマの中では、現代人の表面だけになった日常生活の中では味わえない、生身の人間の生き様があった。、(それを日常的に体験なさっている方は稀有なおひと)

 今日観ていてハッと気付いたのだが、草薙くんや、黒木メイサのべらんめえっぽい話し方が低音で落ち着いていることだ。私も含めて、口の悪い人間は五万といるが、みんな甲高かったり、しゃべりが落ちつかず不安定だ。彼らの話し方は、上辺だけではなく、自分の存在から語りかけているように受け取れた。話しはゆっくり落ち着いて、低い声で...というのが理想的かも知れない。

 さて、最終回を観ながら、草薙よ、なぜ幹部の立場を蹴って老人ホームに篭城し警察隊に抵抗した?お前、これからの人生どうするつもりなんだよ!カッコつけているのはいいけど、将来をちゃんと想定して行動しろよ!と思わず、彼演じる彦市が心配になった。任侠を貫くということは、こういうことなのか。

 国語辞典では任侠を「弱い者を助け、強い者をくじき、義のためには命を惜しまないという気風。おとこぎ。おとこだて。」と説明している。

 これだけ任侠ヘルパーにはまったのは、私の中にも義のために命を惜しまない姿に惹かれるものがあったからだろう。

 あー これから木曜日の夜が寂しくなる....................

 

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