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2009年2月

2009年2月26日 (木)

北京五輪女子ソフトボールのメンタル指導者が伝える「10人の法則」

「10人の法則」西田文朗

あなたが感謝すべき人、10人の名前をあげなさい。そして一年以内に、10人全員にあなたの「感謝」を伝えなさい。

penguin世の中をナメると必ず復讐される。他人を疎んじていると必ず他人に疎んじられ、健康を無視していると、必ず健康にも無視される。逆に他人を大切にする人は、人間関係に恵まれ、お金を大切にする人は、お金に恵まれる。これを「返報性の法則」という。

penguinもし本気で自分を変えたければ、人生の師をみつけること。どんな自己変革プログラムよりもはるかに強力。今日ほど日本人が”師”を見失っている時代はない。「自分のやりたいことがわからない」「ほんとうの自分を探したい」などというのは、師をみつける気概も勇気もない人間のセリフ。その気になれば、師はあなたの周りに必ずいる。見当たらなければ会いにいけばいい。師を持つこと、これは最高の能力開発プログラム。

penguin大のつく成功者に孤独な人はまずいない。逆に腹心の友が必ずそばにいる。孤独なのはむしろ会社や上司の悪口で意気投合し、ぐちをこぼしあうこと。悪口、グチ、不平不満はマイナス感情に支配された脳が垂れ流す有害物質で、再び耳から脳に入り、ますます脳をマイナス感情で洗脳していく。マイナス感情で支配されながらグチっているレベルの低いサラリーマンには、間違いなく友がいないし、仲良く見えても信頼関係は育たない、

penguin喜びは肯定的な脳の動力源。努力する喜びは、他人を喜ばせようとしたときの方が大きくなる。一人より二人、三人より四人の喜びを目標とした方が確実に大きくなる。敢えていうが、志の高さとは、あなたの努力によって幸せになる人の数で決まる。だから大成功者ほど「社会のため」「世界のため」という、とんでもない理念を掲げている。本気で信じているから、とてつもないパワーを発揮できる。運という錯覚は、こういう脳に宿る。

penguinやりがいとは、仕事の内容や種類だけではなく、誰のために仕事するか、誰と一緒に仕事するかというソフト面が大きい。仕事自体はつまらなくても、リーダーや仲間に魅力があれば、そこにやりがいが生まれる。

penguinスポーツの世界では素直でなければ絶対に成功できない。素直でない人間が成功できないのは、自分のやり方や考え方に固執し、それ以外のものを受け入れないから。

penguin大企業のトップが語った「才能や能力の差が、仕事の結果となってあらわれる差を1とすれば、心の持ち方の違いによる差は5にも10にもなる。」

penguin世界でいちばん簡単な成功法は、人を喜ばせることである。

penguin「無財の七施」

  • 捨身施  自分の行動で相手を助けたり、サポートしてあげる
  • 心慮施  相手の悲しみや喜びに共感する
  • 和顔施  やさしい表情、微笑で相手の心を和ませる
  • 慈眼施  いつくしみの目で安心させる
  • 愛語施  温かい言葉で語りかける
  • 房舎施  居場所を提供する(心にゆとりを与える)
  • 床座施  席を譲るように譲り合う

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2009年2月22日 (日)

樹氷バスツアー 温泉で会社人事はやめて!

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 昨日、今日と一泊二日で蔵王樹氷をみるバスツアーにお袋とその子分たちと一緒に行ってきた。今年は暖冬でモンスター(樹氷のことをいうらしい)はまだかろうじて樹の形をしているが、積雪が多い年は本当に巨大化け物にみえるらしい。

 今年は良い子樹氷なので、ちよっと残念だったが、生まれて初めてみた樹氷たちは自然のかもし出す不思議な芸術集団だった。「今日のような晴天は珍しい」と、老スキーヤーたちがロープウェイの中で話していた。ラッキー!

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 さて、昨夜とまったホテルは、かけ流しの源泉があった。吹雪く音と景色の中で、のんびり湯に浸かっていると、30代らしき男性二人が、あの人事はなんだかんだとか、あの課長はダメダメというような会話をずっとしていた。

粉雪舞う吹雪の温泉で、会社人事を話し続ける人間たちは異様に不自然であった。例えるならば、満開の桜の木にひっかかったヤマザキ食パンの袋、清流に浮かぶペットボトル、高級寿司にまじった魚肉ソーセージ....といった感じかしら。何か違うだろう。

 さすがに温泉内の喫煙なら注意対象だろうが、会話の中身までには立ち入れない。しかし、その不快さは同等のものであると感じた。温泉で社内人事の話題、家庭で上司の悪口、営業の得意先で自社の不満等々........。

 その人自身は変わらなくても、様々な状況に応じて態度や会話が変わることは大切ではないだろうか。職場への不満は簡単に消えなくても、それを温泉や、スキー場や、家庭に持ち込む必要はないはずだ。それらを持ち込んでどうなるのか?何も解決しないし、むしろ自分自身によって、自分の人生をイヤーな職場の支配下に置いていることに気づかなくちゃ。

 職場は職場、遊びは遊び、自分は自分なんだというハッキリとした割り切りが、自分の人生を切り開いていくのだと私は信じている。

 

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2009年2月18日 (水)

一年前に9800円購入自転車が、パンク10回!修理代入れて25000円に!

 「安物買いの銭失い」ということわざがある。安いものは安価で壊れやすく、最終的には高価でも品質のよい物を選ぶべきということである。

 今日、自転車が数日前にパンク修理したにもかかわらず、空気がなくなっていて、自転車屋にもっていった。この自転車は、一昨年冬に9800円でディスカウントストアで購入したものであった。数ヶ月たってから頻繁にパンクをし始めた。人間不信傾向がある私は、近所の世に恨みをもつ者か、職場で私を忌み嫌う者の反抗ではないかと疑った(;ω;)

 朝の時間ギリギリに出勤する私としては、朝のパンクというものは非常につらい。また、仕事で移動する際、乗った途端にいやなペコペコ振動があり、数分後はドタンドタンと地面を波打つ音と振動になってしまい、途方にくれたこともあった。

 パンク修理10回と、携帯空気入れボンベ、今日のタイヤ・チューブ交換とかなりの金額がかかった。こんなことならば、25000円のブリジストンものを買えばよかった(ρ_;)

 ケチな私は、転んでもタダ起きないよ。失敗からちゃんと授業料払って私は学んだよ。  

 耐久消費財をケチるな!ということを。

 安いものを買うならば、それから良い「気」がでていることが大切なのだということを。

 値段だけで判断せず、高品質なもの・ことを取りいれよと....

  まずい、私の住居から2件隣にLAWSON100が今月オープンした!!!

 

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2009年2月16日 (月)

分析に一番大切なのは、空と大地をみること「超一流の分析力」

 私は最近、最終的判断を決めるのは分析ではなく、感覚であると実感している。膨大な著作を出している中谷彰宏氏であるが、今回のテーマは当たりだと思う。「分析」というものを頭だけではなく、からだ全体でとらえようとしている解釈には共感する。

「超一流の分析力」 中谷彰宏

bell分析力をつけたい人は、この週末、ぜひ旅行に行ってください。分析に一番大切なのは、空と大地をみることです。成功する投資家は必ず田舎に住んでいます。

bell目に見える問題は、枝葉にすぎない。問題は根っこにある。

bell分析は、理論や理屈ではありません。生の体験をどう感じるかということです。分析の根底には「感じる力」が必要です。たとえばワインの味は知識では分析できません。ワインの勉強だけしていてもだめです。海に行ったり、山に行ったり、本当の野菜の味を知って、初めてワインの味がわかるのです。

bell世の中には、言葉にならない、いろいろな現象が渦巻いています。それをいかに言葉に置きかえるかが、分析力です。

bellあらゆるものを、本を読むように読む。本を読むことはストーリーを追いかけたり、文字を読むことではありません。実は、本に書かれていることを観察・分析して、物語のメッセージを感じ取ることなのです。

bell悪い仮設を立てると、いい結果は出てきません。「あの人は自分のことを嫌っているに違いない。あれもそうだ。これもそうだった」と仮説を立てると、結果、そういう分析にたどりつきます。

bell分析で集めるものは、情報ではなく、知識です。次から次へと「知恵が入ってくる仕組み」をつくりあげるのが、分析です。

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2009年2月15日 (日)

貧乏で何か問題でも? 「昭和のエートス」より

 いろいろと考えさせられる本なので、気になった箇所をほぼそのまま引用する。

「昭和のエートス」内田樹

貧乏で何か問題でも?

 貧困は経済問題だが、貧乏は心理問題である。あちらはGWにハワイ、こちらは豊島園と、相対的劣位にあることから心理的な苦しみを受けることを「貧乏」という。近代社会以前にはこの種の苦しみは存在しなかった。農民が大司教の衣装と自分の衣服を比較して苦しむというようなことはおこらなかった。貧乏は「人間は生まれながらにして自由かつ平等の権利を有する」と宣言した「人権宣言」によってはじめて公式登録された。貧乏は近代市民社会とともに誕生したのである。貧乏とは私が端的に何かを所有していないという事実によってではなく、他人が所有しているもの(それは私にも等しく所有する権利があるはずのものである)を私が所有していないという比較を迂回してはじめて感知される欠如である。

 誰でも他人の所有物を羨む限り、貧乏であることを止めることはできない。そして、大変困ったことに、資本主義経済とはできるだけ多くの人が、「私は貧乏だ」と思うことで繁盛するように構造化されたシステムなのである。外形的にはきわめて富裕でありながら、なお自分を貧乏だと思い込んでいる人間こそ市場にとっては理想的な消費者である。

 「私はすでに十分に豊かである」と考える人は少ない。もちろん、それには理由がある。もし、人々が方丈の草庵を結び、庭に生えたトマトと胡瓜を齧り、琴を弾じ、詩吟を吟じ、友と数合の酒を酌み交わしして清談することに深い喜びを見出すようになれば、日本経済はたちまち火の消えたようにしぼみ、遠からず日本は中進国レベルに格下げされてしまうからである。

 他者の欲望を模倣するのではなく、自分自身の中から浮かび上がってくる「自前の欲望」の声に耳を傾けることのできる人は、それだけですでに豊かである。なぜなら、他者の欲望には想像でしか出会えないが、自分の欲望は具体的で、それゆえ有限だからだ。自分はどのようなものを食べたいのか、どのような声で話しかけられたいのか、どのような肌触りの服を身にまといたいのか。そのような具体的な問いを一つ一つ立てることのできる人は求めるものの「欠如」を嘆くことはあっても、「貧乏」に苦しむことはない。

 日本社会はそのような能力の開発のためにほとんどリソースを投じてこなかった。貧乏コンシャスネスは「万人が平等」であるという市民社会の原理の「コスト」であり、市場経済の駆動力である、それゆえ、これから先も日本人はますます貧乏になり、資本主義はますます繁盛するであろうと私は思っている。

善意の格差論のもたらす害について

 格差論によると「取り分」が不足しているのは、適正な能力評価がなされておらず、無能力かつ無権利な人間が、「私の取り分」を横取りしていると考えた。それゆえ彼らは、より適切な査定と、迅速な再分配によって能力主義的に救済されることを希望する。重要なのはこの点である、彼らは弱者一般の救済ではなく、能力のある弱者のみの選択的救済を求めたのである。

 改めて言うまでもないことだが、すべての人が等しく社会的資源を分かち合うことで豊かさが実感できる社会というものは存在しない。権威や威信や財貨や文化資本などのかたちをとる「強者の取り分」は構造的に「弱者の取り分」を奪うかたちでしか確保されないからである。弱者の側から要求する「より合理的なシステム」の要求が、要するに弱者の入れ替えをしか意味しないということである。

 原理的な言い方をすれば、貧困問題は富貴問題と対になってしか存在しない。どのように資源が貧しくとも、共同体の中で、子どもや老人や障害者にも資源が公平に分配されるシステムを有していれば、その社会に「貧困問題」は存在しない。人々が共同体の存続を最優先に考えるときには貧困問題は存在しない。

 現在の格差社会論は「私が格差上の不利益をこうむっているのは、本来私に帰属すべき資源が他者によって奪われているからである」という言明から出発する。私にはこれが最初のボタンの掛け違えのように思われる。この前提から出発するとどれほど強弁を駆使しようと、論理的に導かれる結論は「無差別的能力主義」以外にない。

 私たちは近代市民社会の起源において承認された前提が何だったかもう一度思い出す必要があるだろう。それは「全員が自己利益の追求を最優先すると、自己利益は安定的に確保できない」ということである。

 差異はたまたま自分の口にあるパンについて「私にはそれを占有する権利がある」と思っている人間と、「私にはそれを他者に贈与する権利がある」と思っている人間の間に引かれている。どちらもパンについて自由裁量権を持つことを喜びとする点では変わらない、だが、人間の共同体は後者のタイプの人間を一定数含むことなしには成立しないのである。

父の子育て

 今の日本ではもう一度「母親の育児戦略」すなわち「荒天型モデル」による子育ての大切さを認識することが必要ではないか。子どもの世界において顕在化している学力低下、学級崩壊、不登校、いじめ、自殺...といった一連の現象はあきらかに日本の子どもたちが「絶対的弱者」化しつつあることの徴候である。だから必要なのは「競争に勝ち残れ」という淘汰圧をかけることではなく、その危機的なまでに生物的脆弱さを保護することである。それは「何でも食べられる」「どこでも寝られる」「誰とでも友だちになれる」という基礎的な人間的能力を育てることだと思っている。システムが崩壊して荒野に放り出されたときに生き延びるためにまず必要とされるのはそのような能力だからである。そして、それは「競争に勝つ」という動機付けからは最も遠いところにあるものなのである。

「モンスター親」は存在しない

 これまで教師を叩いてきた人々が今度は手のひらを返すように「モンスター親」を加害者として告発する。だが、大切なのは被害者加害者の白黒をつけることではない。自分のしようとしている社会的行動のもたらす利益と不利益を冷静に考慮する習慣を市民一人一人が身につけることである。「100%の正義」が「100%の不正」を告発するという単純な図式こそが私たちの社会システムの円滑な機能を妨げているという事実に私たちはそろそろ気付くべきだろう。

 私は「モンスター親」などというものは存在しないと思う。いるのは「いささか常識を欠いた方」たちだけである。被害者と加害者、正義と不正の単純な対立図式であらゆる社会問題を扱う態度こそ「いささか常識を欠いていないか」と私は危ぶむのである。

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「007慰めの報酬」から山谷問題へ?

20080620003fl00003viewrsz150x   前作カジノ・ロワイヤルがよかっただけに、今回の続編に期待をもって映画館に向った。なるほど、今回の作品も確かに濃厚で、アクション満載のお腹一杯映画だったが、前作のような新鮮な驚きのような印象はなく、お決まりのアクション定食だったような気がする。

 映画の後、本で紹介されていた蔵前にあるフレンチで食事するが、おいしい料理だったにもかかわらず、隣の親子4人がうるさかったため、減点とする。確かに下町のレストランなので気楽さはあってもいいと思うが、同時刻・場所を共有している周りの状況を無視した態度は、教育上よくない。ただ、中学生くらいのこどもたちはしっかりしていて、テーブル席で携帯電話で話す母親をたしなめていた。

 最近は、子どもと親の集団をみかけるようになったが、10時過ぎまで騒ぐのはいかがなものか。カラオケでも深夜近くまで、親と小さな子どもたちが利用することも目にする。居酒屋もカラオケも一緒でもいいけれど、周囲へのマナーとも、子どもたちと大人の境界線ははっきりしておくべきではないだろうか。

 かくいう私も、きっとどこかでマナー違反をしているかも知れないので自戒の意味でも、他者の気持ちを考え、気をつかい、態度で示す「江戸しぐさ」をぜひ普及させたいと思う。ひょっとして現代の大人よりも感性が優れているかもしれない子どもたちに期待したい。

 007と、フレンチの後の読書感想は、なぜか...

 「だから山谷はやめられねぇ」塚田努

 大学院生だった塚田氏が、就職活動をドロップアウトし、山谷の簡易宿泊所で暮らし、飯場生活も体験するという、幻冬者舎アウトロー大賞も受賞したとても面白い本なのだ。塚田氏は「都市の巨大な雇用は、多くの未熟練の労働を生み出し、代替可能な仕事の増加が都市の新しい生活スタイルをつくりだした。気軽なアルバイトやフリーターを見ると、ドヤ街の飯場の男たちと重ねあわせてみてしまう。生活スタイルは違っても、その本質的な社会に対する関わり方は同じではないか」とおっしゃる。

 このブログを書いている私も山谷地域に住んでいたからわかるが、人間関係とか、責任の重さが嫌で、多くの人間たちが山谷に流れてきた。ただし、どんな状況になっても人間は一人では生きられず、誰かと関わらなければならない。日雇い労働であっても、仕事の斡旋、指示、金銭やり取りには、人が必ずからんでくる。それさえもいやなら、ホームレスだろうが、そこでも一人だけで食べていくことは不可能だし、ホームレス同志の中にも人間関係は存在する。また、、ホームレス自身が社会と断絶したつもりでも、ホームレスは基本的に都市に依存して生活しており、血迷った都市住民がブルーテントに襲撃してくる事件もあった。

 昨夜は、高校同級生のトラック運ちゃんと浅草で飲んだ。数年前の年の瀬にボランティア?で彼のトラックに乗って手伝ったことがある。早朝から深夜までの過酷な労働だったが、配送先の職員には随分と気をつかっていた。私にとってトラック野郎は男一匹妥協しない輩だと思っていたが、実際は組織や、人間関係がついてまわっていた。

 人が生きるうえで、人間関係が絶対不可欠な条件ならば、中途半端に避けるのではなく、全身でうけとめ、うまくやっていくことが大切なのである。また「江戸しぐさ」が出てきそうなので、ここらへんでやめておきましょう...!

chickそうそう、今回の映画では、ジェームスボンドは、一匹狼ではなくて、組織人なんだと思い知らされましたよ

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2009年2月 5日 (木)

天ぷら老舗~007カジノロワイヤル

 今日は10日ぶりに合気道のお稽古に行く予定だったが、昨夜の飲みすぎで身体がだるいにもかかわらず、出勤時に遅刻しそうで自転車ダッシュしたため、軽い頭痛がして、夕方もボーっとしていたため、泣く泣く稽古はお休み。その代わりに、夕食は以前休日にいったら売り切れで閉まっていた浅草の老舗「多から家」ががら空きのため、冬の天丼を食べることができた。正月のテレビで美川憲一と桜塚やっくんが本当に美味しそうに食べていた白子の天ぷらはまさにクリーミーで美味しかった。店の雰囲気もレトロな感じがしてよかったが、かなり期待度が高かっただけに、味に対してはシビアな評価になってしまう。天丼はどうもインバクトにはかける感がして、ついつい土手の伊勢屋の天ぷらボリュームの凄さと比較してしまった。ただ、値段は900円から天丼が食べられるので、気軽に利用できる良い店だ。多分、休日はマスコミの影響で混んでいるのだろう。

 帰宅してからは、友人から借りた{007カジノロワイヤル}のDVDを観る。評判がよかったのは知っていたが、なるほど確かに今までのボンドよりも小さいブオトコだが、ハードコアな強烈なキャラクターには惹かれてしまった。脚色されたボンドワールドに、ついつい自分のだらしなさ、弱さをやっつけて、モノホンの男らしい男にならねばならぬ!”とついつい盛り上がってしまうバカな中年です。

 カッコイイボンドをみながら、ボンドは天丼を食べるか、どんな本を読むのか、自動販売機でコーラを買ったことがあるのか......ついつい、へんな疑問がわいてきた。

週末には「慰めの報酬」を観にいきたいものだ。

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2009年2月 4日 (水)

ホウレンソウ(報告・連絡・相談)なんてくそくらえや・・・未来工業

 今夜は職場のスタッフ二人と秘密の打ち合わせ?があって、浅草で飲んだ。私も偉そうに色々と言いたい放題だったが、仕事の仲間としてだけではなく、友人としても出会ったんだと思う。役割ばかりで出会っていたら、人生はしょぼくなるし、良い仕事もできるわけがない。昨夜は私の誕生日で、娘が予約してくれた店は六本木ミッドタウンだったが、それはそれで嬉しいが、やはり下町特に浅草がいいのだ。六本木の店の店員さんには、江戸前のいい加減な説明をしたので、困っていた様子だった。

 帰宅して久米宏の「テレビって何だ」を観ていたら、全員が正規雇用社員という未来工業を紹介していた。未来工業については天外伺朗氏の本で知り、このブログでも以前紹介したが、数日前にも創業者の山田昭男氏の著作「楽して儲ける」を読んでいた。

 特に好きな箇所は「ホウレンソウなんてくそくらえや」の部分だ。昔からホウレンソウ(報告・連絡・相談)が大事と経営・組織論では言われてきた。しかし、若い頃の私はこの言葉を聞いたとき、なんか下品で、低教養の言葉だなと感じた。山田氏は、あれほどムダなものはないと断言する。現場のことは現場がいちばんわかっている。現場が判断して仕事を進めればいいはずだ。そもそも経営というのは「戦略」と「戦術」だ。経営者の99.99%は天才ではなく、バカで無能な一人だから、社長はどちらかを選ぶしかない、経営者は「戦略」を選ぶべきで「戦術」をやってはいけない。「社長はどこかへ行って勉強しなさい、社員は働きなさい」。先頭にたってすべてをやりたがる。それが大きな失敗の原因となる。

 そして「いちばんの柱は社員のやる気やぞ」。会社が人の集合体である限り、社員のやる気が経営のベースとなる。社員のやる気をいかに起こさせ、いかに高めるかほ考えるのが社長の一番大切な仕事。社長の仕事は社員の不満を消すことだ。

  今日のテレビでは求職難といいながらも、キツイ仕事は求人難という実態を伝えていた。国会では、マツダの雇用形態についての質問を麻生総理にぶつけていた。個々の企業の就業実態を首相に問うのはいかがなのか。それが許されるならば、社会のあらゆる個々の疑惑、問題を首相に責任取れといっても、混乱するだけではないだろうか。麻生総理でなくて、オバマ大統領でもその要求にはストレートにはこたえられまい。それは人間の課題処理の限界値を超えているし、社会・国際システムは複雑になりすぎており、単純化した問答にも限界がある。

  私が20歳のときに読んだ糸川英夫博士の言葉が私の人生を貫いている。それは「システムをつくっても課題は解決しない。システムでは人は動かない」ということだ。

 勧善懲悪的な国会、マスコミに翻弄されてはいけない。まず自分のココロでまず判断せよと学んだ夜だった。

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2009年2月 2日 (月)

「九つ言葉」九歳になったら世辞のひとつもいえること

 今日は6時に職場を発ち、ジムでトレーニング。昨年秋に合気道をやり始めてから、筋力トレーニング回数は減ってしまった。ただし、格闘家志望の若者らと、筋肉系の動きと、武道的な動きを実験し、確かめていく時間は愉しい。今日は腰を痛めて落ち込んだ青年に、人を倒すのは筋力ではなく、むしろ力を抜くことにあるんだよと教えてあげたら、ご指導ありがとうございますと頭を下げられた。そういう私もまだ何もわからないヒヨコ状態なので逆に恐縮してしまった。

 明日が私の誕生日なので、夕食はお赤飯をいただいた。しかし、トレーニング後のお酒はうまいので、グビグヒと入って、ダラダラと食べ続けてしまった。最後の方は焼いた御餅にバターと醤油でおいしく頂き、締めはビターチョコでした。(注)私は特に酔うと「である」調と「ですます」調が入り乱れます)

 さて、そんな中、最近はまっている「江戸しぐさ」の本を読んでいて、ナニっ!!って思ったのは九歳の子供が世辞をいうことだ。今では世辞というと相手の機嫌取りの「おべっか」をさすが、江戸時代は奉公に出る子供が多く、きちんとした挨拶はもとより、「さようでございます」などの言葉使いもできて当然とされていた。

 江戸時代の世辞は嫌味にならず、むしろ相手を心地よくする上手な言葉をいう。「おはようございます」のあいさつに終わらず、「よいお日和でございますね」などと世辞を続ける。これができるかどうかでその子の商人としての才能を見極めたらしい。

 さあ、どう思います?こどもが世辞をいうこと。多分、子どもに大人の社会のやり方を押し付けるのは不自然という意見が多いのではないかと思います。でも、それは大人が世辞を上っ面の嘘っぱちで言っているからではないでしょうかい?私の周囲の大人たちはむしろ世辞のひとつさえも言えず、「他人よりも自分が正しいもんね(゚ー゚)」のバリアを張って生活しています。だから人間同士の活力が出ません、むしろ喪失されています!

 もし、私の周囲に10歳位で、「おさむうございます」などというお子さまがいらっしゃったら、その親御さんをココロから尊敬するでしょう。現代的な自分主義の余波が子どもたちの躾にまで浸透し、本来は人と人のあいだで、言葉使いや気配り、そして不条理な部分さえも含めて学んで成長していく子どもの学びの機会を奪った私たちの責任は重いのだと考えます。ひよっとしたら、私たち大人自身が、江戸時代の子どもたちよりも幼稚な発想しかできていないのかも知れません。

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チェ 39歳 別れの手紙

Medium  今日は映画の日ということもあり、昼間に有楽町へと向った。チェゲバラの2シリーズには興味があり、パート2は公開されたが、パート1も日比谷シャンテで上映されていたので、まず1からと期待して劇場に着いた。しかし、午後の部は売り切れで夜の部しか席がない。

 結局マリオンにてパート2「チェ 39歳 別れの手紙」を観る事にした。チェ・ゲバラはキューバの革命家であることと、あのTシャツで有名なフォトの姿のイメージくらいしかなかった。しかし、この映画ではチェがこぶしを振り上げ反逆する革命家でなく、物静かで優しく信念の強い男性として描かれており、自分の革命家というイメージの幼稚さが恥ずかしい。

 パート1を観ていないせいなのか、最初はよくわからず中たるみしたが、ジャングルでのゲリラ活動シーンからは、画面に引き込まれた。激しい銃撃戦はないが、時系列的にチェと組織の行動、軍との戦いが描かれている。チェが最後は処刑されることがわかっているだけにドラマの展開が進むほどに辛い思いがした。

 パート1はチェの成功劇らしいが、このパート2は悲壮感に満ち溢れ、救いがない世界だ。映画の娯楽性によるカタルシスを求めてきた私だが、最後のせつなさは苦痛ではなく、人がどう生きるかということを問いかけられた気がした。

 私の方は、この安定しているような世界にどっぷりと浸かって最近「おとなの週末」とか読んで愉しもうとしているが、実際の世界はイラク、パレスチナをはじめ世界はまだ戦争状態が続いてる。そして、貧困層と富裕層、軍事政権等々の状況はチェの時代とどう変わってきたのだろうか。もちろん、この映画も商業資本により作成されたものだが、平和への希求と戦いの残酷さというメッセージは確実に我々観客に届けられていると思う。

 この映画がマリオンで上映されている日本もまんざら悪い国ではない(映画の日でも席は4分の1くらい空いていたが..)。

 

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